激流 / 蜷川幸雄2006-2007

[蜷川幸雄 インタビュー2 2006年春から秋]


稽古場にひとりふたりと俳優たちが入ってくる。挨拶をして、更衣室で着替え、装置の階段にあがり、声を出し、軽くストレッチをはじめる。ファイトコリオグラファーの國井正廣が声をかけ、殺陣稽古がはじまった。テレコを差し出されている蜷川に気を使ってか、いつもより声を落としてくれているようにも思える。申し訳ない気持ちになりながら(単なる自意識過剰だったかもしれない)、質問をボソボソと続けた。

「『タイタス・アンドロニカス』(彩の国さいたま芸術劇場4月)は再演(初演は04年)ですが、ロイヤル・シェイクスピア・シアター(RSC)での〈コンプリート・ワークス〉招待作品でした」

「RSCのあるストラットフォード・アポン・エイヴォンという場所への思い入れはあるんだよね。若い人にはわからないだろうけれど、芥川比呂志さんなどに代表される50~60年あたりの新劇世代の俳優がどれだけイギリスに憧れをもっていたかは、彼らのエッセイを読めばわかる。そういう場所で日本のカンパニーが公演するということはすごく大事なことで、(吉田)鋼太郎や小栗(旬)など(過去には真田広之)、そういう特別な場に立った俳優を増やしていくことが、しかも日本の演劇が本拠地で芝居をやって評価されたっていう体験を新たな世代がもつことが大切なんだ。今のぼくにとってイギリスで公演をする意味は、日本人がやるシェイクスピアが通用することを堂々と提示したいというだけなんです」
「実際、みごとに評価されてよかったですね」
「みんながエイヴォン河に面したテラス(グリーンルームという関係者用の食堂がある)食事しながら会話しているのを見ていて、この経験が演劇的なものになっていくと実感した。劇場の内側から見ることが文化ってものを成熟させていくんだって思う。大事なのは、経験を積むってことなんだよね」
「それも生活ってことですね」
「小さいことがいろいろ積みあがって発展していく。食堂で同じものを食べ、川の流れを見て。小栗の世代はちゃんとそれを引き受けていってほしいね」
「小栗くんは、蜷川さんとの経験からもっと学びたいと思っているようですよ」
「ほんと? ハハハ」

『タイタス』の稽古と重ねて稽古が行われていたのは『白夜~』。作家・野田秀樹が演出した当時は(86年)なんだかわからないけど勢いがあって笑いがふんだんにあっておもしろい作品という印象だったこの作品が、蜷川によって深刻な問題が潜んでいることを知らされた。
「『パンドラの鐘』(99年)を野田とぼくとが同時に演出した時に、作家が演出した舞台のほうが優れていると思う人が多かったんですよ。でも、実際は野田応援者ばかりが新聞でコメントしていて、ジャーナリストがフェアじゃないと思った。そういう印象があとを引いていて、じゃあ、今度は野田の作品をひとりでやってみましょう。批評家たちが戯曲を読み解けないで評価していた作品に、ぼくがひとつ回答してみましょうということでやってみた。それと、この作品は、我々が過ごしてきた60年代から70年代最初の過激派を描いた作品で、それは自分の過去の生活や演劇に重なることもあった。だからあの作品をやることは、自分自身の検証でもあった。そういう思いを事前には語っていないけど、今言うならば、そう。だから、かなり真剣にやりました。この作品を観て、扇田(昭彦)さんだけが、“こういう読み方があったんだ”って書いてくれました」
 
 次は『あわれ彼女は娼婦』(シアターコクーン7月)。この時は、俳優の要望で部外者は殆ど稽古場に入れなかった。関係者以外が自由に稽古を見られることは蜷川の芝居以外ではそうそうない。稽古を見られることは、原稿でいったら、取材メモだとか下書きであり、これを人に見せられるか?と言われたら、躊躇してしまう。だからこそ俳優が稽古を見られることを拒む気持ちもわかる。  この機会に、稽古を見ないで本番ですべてを感じる。海外のジャーナリストのようなやり方をたまに試すのもいいかもしれないと思った。稽古場で蜷川の意図を聞いた上で質問するのではなく、舞台を見て感じたことを質問してみたい。しかし、蜷川は『あわれ~』のことを回想したくないと言った。
「蜷川版堕落論かと思ったのですが?」
「これに関しては、耳をふさいで目をふさいでひれ伏します(笑)」
「ゲネで音楽をとってしまった決断について聞きたいのですが。段取り直しに夜中までかかってしまったとか」
「忘れちゃった」
「本読みを強化していたのは手強い戯曲だったから?」
「そういう本だってこともあるかな」
「それ以降、本読みを強化された印象がありますが」
「演劇をきちんと成立させるためには、当たり前だけど、演技をちゃんとやらないといけないなって思ったんだな。戯曲が言語によって説明しきれない微妙な部分が多ければ多いほど、丁寧にやらないと。ぼくは結末を早く見たいからつい走ってしまうんで。これまでの自分の稽古のやり方の反省も含めて、アプローチを変えようかなと。自己変革を自分に迫っているんです。でもそれも作品にもよるんだよね」
 早々に、『オレステス』(ホリプロ9月)に話題を映すことにした。
「『オレステス』も本読みをよくやっていましたよね」
「言葉を大事にして…おれにそんなこと誰も言われたくないと思うけど(笑)、細かくつくっていったね。坂道を一歩一歩あがるように、俳優に雨という負荷をかけながら、言葉を深く染みいらせていく作業でした」
「雨は効果的でしたが、俳優の肉体を酷使させすぎた気もします。藤原竜也君は、初日に声が出なくなっていました」
「苛酷だったね。でも、竜也は変わらなくちゃいけないんだ。俳優の技術的には、もっと音量豊かに。精神的には、世界を相手にたったひとりでも闘うという構造を背負わせた」
「なんて残酷な」
「残酷じゃなくて、篤い友情だよ。中嶋(朋子)さんの演技もものすごくいいんだよね。もっと、年間の総括とかで話題になってもよかったと思う」
「中嶋さんの強さは本当に良かったですね。でも、どうしても、蜷川さんが凄かったっていうことがまず話題にあがってしまうんですよ。朝日新聞の2006回顧の記事も蜷川さんのことばっかり書いてありましたよね」
「公演数が多いってだけでしょう?」
「批評家を批評する運動が効をなしたんじゃないですか(笑)」
「そんなことしてないよ! だって、実際評価する作品が理解できないんだよ。近代の戯曲の再演を評価するなんて、なんでそこに戻っちゃうの? そんなに現代劇はダメなのかよ!? って思うんだよ」
「昔の名作を現代の肉体で再現してみることに意義があったりするんじゃ…」
「意義なんかないよ! ギリシャ悲劇やシェイクスピアには宗教的な問題とか、民衆と指導者と関係など普遍的な問題性が含まれている。それを論戦によってどう立証していくかっていう作品と比べて、最初からオチが見えている作品の何が新しいんだよ?」
「売れている小説とか映画もそうですが、わかりやすい展開に癒しを求めているんですかね」
「癒されたいやつは勝手に癒されてよ。おまえら、状況をきちんと生きてないから、癒されちゃうんだよ」
「蜷川さんは決して癒しを求めないと」
「当たり前だよ、誰がシルバーシートに座るかッ」