激流 / 蜷川幸雄2006-2007

[Episode.5 宮田道代 裂けたシューズ]


55歳以上の高齢者の生きてきた経験をまるごと演技に使おうというゴールド・シアター活動は、意義のある試みだ。ただ、一年間演劇だけやって生きていけるのは、富裕層のみの特権だなよなぁと思っていた。もちろん、それだけここに集う方々は人生を頑張ってきた証でもあるのだが。そういう疑問を呈すると、宮田道代は笑って言った。
「私はこの集団の中ではちょっと違うタイプだと思う。老後の蓄えを全部こっちに使ってしまったんだから、これからが大変よ」

実家・新潟から夫とも子供とも別れて一年間単身赴任となる。でも、家族は皆快く送り出してくれたそうだ。

劇場のある駅から何駅か先にひとり暮らしをしているのだという宮田のその日の私服はシンプルな黒のニットに黒のパンツ。足下は茶色のウエスタンブーツだった。「ステキなブーツですね」というと「足下くらいオシャレしないとね」とニッと笑った。

白髪の交じった短髪、無駄な脂肪も化粧ッ気もほとんどない外観。宮田道代は、ふだんでも舞台上でも、潔くシャキンと背筋をのばして立っている。
「姿勢には、娘がうるさくて、いつも注意されるの」。

新潟在住の宮田は、70年代は東京に来て演劇活動をしたこともあったという。当時流行のストレートロングではあったが、サラサラなびかせるのではなく、たいていキュッと頭の後ろに結びあげていた。新宿よりも渋谷円山町あたりをテリトリーにしてジャズ喫茶などに通っていた。当時は社会運動が盛んな時期。右翼と左翼、自分ではどちらにも加担せず、どちらにも友人をもち、バランスよくつきあっていた。蜷川や唐の舞台も見ていたという。

一度、劇場の外でひとり煙草を吸っている姿を見かけたが、その立ち姿は70年代のモノクロ写真などによく見かけるかっこいい女性のものだった。第二回公演『鴉よ、俺たちは弾丸をこめる』(06年12月)で、頭にタオルを巻いて男勝りに脚を大きく広げて立っている〈いわく婆〉の姿とは印象が違った。
 若き宮田は、演劇の道は早々にあきらめ結婚した。そして、出会う介護問題。親の介護をするため新潟で暮らす決断をしてから、彼女の生活は変わった。家族の介護のほかに職業としての介護も行うこととなった。他者の人生――しかも病と向き合うのは相当の精神力が必要だ。それについて、この短い文字数の中で紹介することは畏れ多くてできない。でも、宮田の毅然とした姿勢と笑顔は、その生活の中で培われてきたものなのだろうか。ゴールド劇団員にはあまり厳しい言葉を使わない蜷川が宮田には不思議と厳しいダメ出しを放っていた。
「元気がないって台詞いっぱい削られちゃった」と弱気な様子は見せず笑いながら言った。そして続けた。
「蜷川さんには稽古で、“ふざけて笑わなくていい。本音を出せ”って言われたの」
 蜷川は稽古場で言っていた。
「これはみんなに言っていることなんだ。本音で言わない限り、みんなには伝わらないよ」

『鴉』の初日が終わって、初日乾杯の時、ニコニコ劇団員と談笑している宮田の履いているスニーカーのサイドが裂け足が見えていた。はみだした甲には包帯が巻かれていた。稽古中から怪我をしていたそうだ。そんなことを気づかせないほど、彼女は舞台にしっかり立って声を張り上げていたのに。
「大丈夫、大丈夫」とつとめて軽く交わし「こう見えて本当は体丈夫じゃないのよ」なんてことも笑って付け加えた。

宮田はいつも背筋をのばし、胸をはり、明るく回答をする。けれど、本当のはじまりはその先にーー。包帯を巻いた甲のように、気丈の裏側までさらすことから、ゴールド・シアターの演技ははじまるのかもしれない。