2017・待つ/インタビュー:野辺富三

野辺富三
たとえセリフがない役でも、その世界の一員 として確かに存在するために

野辺富三 ”キャベツ”

<photo 仲野慶吾>


 9人の俳優のなかで野辺がニナガワ・スタジオに入ったのが最も遅いが、その前から長いこと、蜷川幸雄の舞台には出演していた。
「別の劇団に所属していたときに、蜷川さんの『オセロー』をやるにあたり、日生劇場の大きな空間を埋めるために身長180センチ以上ある俳優を多数探していて、 ぼくも参加したんです。 そのとき、欧米ではいま、『オセロー』の人種差別について明確に打ち出せないが、日本でやるならそこを打ち出していこうという 蜷川さんの考えから、 オセロー以外は金髪にしようということになったようで。でも、カツラをつくる予算がないから、いずれ髪を染めてもらうって言われたんです。蜷川さんのところは台詞を覚えておくことや事前に役の準備をしておいたほうがいいと聞いていたぼくは、さっそく髪を染めました。さすがに、完璧な金髪ではなく、茶髪だったんですが。そうしたら、意外と染めてきた人はいなくて、ぼくだけ浮いてしまったんですよ。そのままひとり茶髪のまま、稽古場の隅に1週間くらいいたら、あるとき、蜷川さんが寄って来て『おまえなんで髪の毛紅いんだよ?』って聞かれて、『役作りで髪の毛染めるくらいふつうですよ』みたいに強がってみたら、蜷川さんニヤニヤしながら 『ばかだな、ほかにも役あるのにな』って。ぼくの行動はちょっと早過ぎたみたいでしたが、この髪のおかげで、50人の兵隊役の中で、1回だけでも蜷川さんと話すことができたから嬉しかったですね」

 余談では余談ではあるが、野辺は2010年頃、自身で主催した公演のために、古典落語親しむようになったそうで、そのせいかひとり語りが流暢だ。


 さて、無事に『オセロー』を終えた後、『近松心中物語』の群衆役として、再び声がかかった。
「今度はスキンヘッドにできる人という条件でした。染めることも厭わないから刈ることもできるだろうと期待してもらったんじゃないかと思いました。この『近松~』の公演は地方をまわりながら、3、4年続いたんですね。そうすると、蜷川さんも『(ほかの作品の)稽古場を観に来ていいんだよ』と言ってくれて、真田広之さんの 『ハムレット』 や、『身毒丸』などを見せてもらいました。旧作もいいけれど、やっぱり、新作は刺激的だと思ったし、『近松』で知り合ったスタジオの方たちの『待つ』も観て、かっこよかったので、2000年に『近松~』公演が一段落したとき、ニナガワ・カンパニー・ダッシュ(当時はこの名称になっていた)のオーディションを受けました」
 3つあった演技の課題の中から、野辺は『桜の園』を選んだ。
「ロパーヒンが桜の園を手に入れたという場面で、蜷川さんだったら、ぱっと幕が落ちて、奥に一面桜が咲いているというような演出をするのではないかと想像し、ぼくはその代わり、背中に桜を入れ墨のように描いて、ここぞという瞬間にシャツを脱ぎ、『桜の園を手に入れた』ってやったら、蜷川さんに『バカ!変態!』って言われました(笑)。でも不合格にはなりませんでした」
 こうして晴れてカンパニーダッシュのメンバーになり、『待つ』シリーズにも参加した。


「『待つ』は、短いエピソードでも主役になれることが魅力的でした。蜷川さんの商業演劇で脇役をやっている俳優たちが、ここでは一瞬でも主役になれる可能性があるんです」
 野辺の 『待つ』 での代表作は、座談会でも語られている、清家栄一と組んでやった、村上春樹の 『かえるくん、東京を救う』のかえるくん。『桜の園』の課題といい、かえるくんといい、ふだん、物静かな印象の野辺が、ある瞬間、弾けるところが、彼の魅力のひとつであろう。
「『かえるくん』のセリフで『世界とは大きな外套のようなものであり、そこには様々なかたちのポケットが必要とされているからです。』というものがあって、みみずくんは絶対的な悪ではない。世界には多様性が必要だということなんですよね。今回、『2017・待つ』でやる『キャベツ』にも、それと同じような考え方を感じるんですよ。キャベツが絶対悪で、世界を支配するつもりはないのだと。偶然ではありますが、不思議なリンクを感じました」

(写真/宮川舞子) “キャベツ”より)

『キャベツ』のほかには、『12人の怒れる男』で、14年前と同じ役に再び挑む。
「セリフが少ない分、所作で、その場が緊張している空気を表現するため、14年前は、おせんべいを食べていました。シーンっとなったところでわざわざ音を立てるようにして。今回も同じことをやろうと思ったのですが、年齢的に、おせんべいを食べすぎると、内蔵に負担がかかるのと(笑)、14年の経験から違う表現を試してみるのもいいかなと思っているんです。セリフがなくても正しくリアクションしていけるかが第一の目的なので。これまでの蜷川さんの舞台で、それこそセリフがない役でも、リアクションで、その世界の一員として、なんらか役割を担ってきたわけで。そういうことも含めて、いままでやってきたことの集大成のような意味もあるかなと考えています。14年前だと何か小道具を使って、間をもたせないことには、すごい心配だったんですよね。いまは安心かというとそうは言い切れないですけれど(笑)」


 野辺は、2004年にカンパニーダッシュが解散した後は、ほかのプロデュース公演などにも参加しつつも、蜷川の稽古場にあしげく通い、熱意を見せることで『メディア』(05年)に参加できるようになるなど、粘りと運をもっている。見学する稽古の台本を暗記して、蜷川が「誰か覚えている人いないか」という蜷川の呼びかけに、応えるということも忘れなかった。
「稽古を観ていると、中に入るとわからないことが客観的にわかるようになって、勉強になりました」

 こうして野辺は、蜷川演劇に魅せられ続け、『尺には尺を』まで蜷川作品に参加した。

取材・文/木俣冬
デザイン/田淵英奈