INTERVIEW
Remember 蜷川幸雄
蜷川さんにとっての最期の大きい仕事とは
2022年5月12日は蜷川幸雄さんの7周忌。2016年、蜷川さんが亡くなってから6年が経ったいまも蜷川さんの言葉や表情、なにより多くの演劇の鮮烈なシーンは色褪せない。
シアターコクーン時代から彩の国さいたま芸術劇場(以下さい芸)まで蜷川さんと伴走してきた演劇プロデューサーの渡辺弘さんに思い出を語ってもらった。
【プロフィール】
Hiroshi Watanabe
情報誌「シティロード」で演劇ジャーナリストとして活動の後、銀座セゾン劇場の開設準備、制作業務、シアターコクーンの運営・演劇制作、まつもと市民芸術館のプロデューサー兼支配人として運営・制作業務に携わったのち、彩の国さいたま芸術劇場の業務執行理事兼事業部長に就任。現在はゼネラルアドバイザー。
[蜷川さんに呼ばれて]
――渡辺さんは蜷川さんに呼ばれてさい芸にいらしたそうですね。
「まつもと市民芸術館に単身赴任していた僕が諸事情で東京に戻ろうかと考えていたところ、蜷川さんに2006年、さい芸の芸術監督に就任するから手伝ってくれないかと誘われました。もともとシアターコクーンで一緒に仕事をしていたし、公共劇場の経験を買って声をかけてくれたようですが絶妙なタイミングでした。もう少しあとだったら僕は違う劇場にいたかもしれません。その頃、ほかにも条件のいい話もあったけれど、僕は蜷川さんとやりたかったから、さい芸に行くことを決めたんです」
―一般の方から募ったゴールド・シアター、ネクスト・シアターや、彩の国シェイクスピアシリーズで若手人気俳優を起用したり、オールメールをやったり、蜷川さんの企画は劇場を活性化しました。
「就任するに当たって蜷川さんは高齢者の劇団とファミリー企画をやりたいと言っていました。高齢者劇団はさいたまゴールド・シアターとなり、ファミリー向けは音楽劇『ガラスの仮面』として結実しました。ゴールド・シアターについては『劇団名、どう思う?』と蜷川さんが聞くから『ふつうはシルバーとかシニアですよね』と返すと『ちがうんだよ、カードがワンランクあがるとゴールドになるだろう。そういうことなんだよ。だからゴールドシアター』って言っていました。 そして蜷川さんはこれらの作品づくりを外部に任せっきりにするのではなく、さい芸内部でやることにしました。初代芸術監督の諸井誠さんが面白い作品をやろうとピナ・バウシュを招聘したり、シェイクスピアシリーズをはじめたりしたことは良かったものの、制作を外部にまかせて、劇場の職員に物作りのできる人たちが育っていなかったんです。シェイクスピアシリーズの制作はホリプロさん任せで、蜷川さんが就任して、ゴールド・シアターをはじめようとしたときも劇場には管理者しかいなかった。蜷川さんが劇場スタッフを使っていこうと提案したことで制作状況が大きく変わりました。そのため若い制作スタッフを入れてもらいました。公共劇場は外部に任せて貸し館状態のところも少なくないですが、どんなに大変でも大きなバジェットの作品を内部で作る経験をすべきだと実感しました。そうすることで、劇場に愛着を感じてもらえる。あの劇場に行けば、面白い作品を観ることができる信頼感が生まれるわけです」
[蜷川さんの演出歴のなかでも白眉でした]
――ゴールドやネクストは劇場発信で海外公演までやりました。
「ゴールドが蜷川さんにとって最期の大きい仕事だったと思います。ただ、とても大変だったでしょうね。ネクストができた頃あたりから落ち着いたけれど、それまでは右往左往していましたよ。なにしろ、最初はプロの俳優ではない一般公募の高齢者で、蜷川さんの同世代やさらに上の世代の集まりだったから扱いが大変で……。でも蜷川さんはどんなに大変でも自分のやりたいことだからと言って責任をもって取り組んでいました。『素人みたいな人たちとやってそれが大きな評判をとったら、プロの人たちとやっていることを否定するようなものだから複雑な気持ちだ』とよく言っていましたけれど、それが蜷川さんらしいと感じましたね。“世界のNINAGAWA”と呼ばれることは照れくさいし、ちょっと恥ずかしいし、という気持ちがあるから思いきって素人集団のようなものをはじめて、生活者の人たちとちゃんと演劇をやることで蜷川さんなりの精神バランスをとっていたのでしょう。
結果的に、ゴールドとネクスト公演において蜷川さんは最も演出力を発揮したと思います。とくにネクストに関しては、蜷川さんのやりたい演出ができていた。コクーンでもそうだったけれど、商業的な公演では蜷川さんは様々に気を使うんですよ。でもネクストとゴールドでは遠慮しないで存分にやりたいことをやれた。まず『美しきものの伝説』この戯曲はよく上演されますが、蜷川さんの演出を超えるものはないと僕は思うし、『2012年 蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』も、こまどり姉妹が出るあんな『ハムレット』はほかにないし、『2014年 蒼白の少年少女たちによるカリギュラ』もそうです。究極は『リチャード二世』(15年)でしょう。蜷川さんの演出歴のなかでも白眉でした」
――渡辺さんがはじめて蜷川作品を観たのはいつですか。
「1971年に現代人劇場の『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』を観たのが最初です。その頃、僕は大学に入るか入らないかの頃で、映画が好きだったから、石橋蓮司さんと蟹江敬三さんと緑魔子さんを観たくてアートシアター新宿文化に行ってびっくりしました。演劇も紅テントなどは観ていたけれど、櫻社の衝撃といったら凄かった。だからゴールドで『鴉』をやったときは感無量でしたよ。それは櫻社でやったものとは若干違います。稽古中に、蜷川さんが脚本を一部カットしたんです。珍しく蜷川さんが清水邦夫さんの本をいじったんですよね。その頃はまだ清水さんが稽古場にいらしていて直接聞いて許可をもらっていました。それだけ蜷川さんはあの作品に思い入れがあったのですよね」
――70年代にやったときは登場人物の高齢者たちの身体に当時の俳優たちが迫れないことが課題で、ほんとうの高齢者でやることで肉薄できたということでしたよね。
「当時、成田闘争に影響を受けてできた作品で、農村のおじいちゃんおばあちゃんたちが老人行動隊として鎖を木にくくりつけて闘争に参加したことを重ね合わせたものですから。蜷川さんは『鴉』にすごく思い入れがあって、演出もほかの作品以上に細かった。それで世界にいけたのだから良かったと思いますよ。パリに2度と香港に行きました。ただ、蜷川さんはかつてパリで『夏の夜の夢』を上演したとき、イギリスほどの高評価を感じなかった思い出があってパリに対して警戒心を持っていました。初日、客席の反応は良かったけれど、ほんとうに受けたのかって信用しなくて。2日目、3日目でネットに評が出ると、だいぶ信用してきて。最後はようやく喜べたみたいでした。
二度目のツアーの最初に香港に行くわけですが、肺の水を抜いたあとで、ほんとは行ってはいけないのに、香港がちょうど雨傘革命をやっていたときで、蜷川さんは行きたかったようです。それでも香港に着いてから実際にデモを見に行ったみたいで……。劇場の客席で行った会見では、香港の人たちの気持ちがわかるし、連帯を示す気持ちでもこの舞台はあるんだ。僕はエールを送っているんですって語っていて、それが蜷川さんらしいなと思いました。蜷川さん、ずっとそういう思いを持ち続けてきたんですよね。あれが蜷川さんの公での最後の会見になりました」
“公演を前に、学生らが占拠する幹線道を訪れた蜷川さんは、作品が香港の現状と重なると指摘。「体制に不満を持つ人たちが必死に闘うことを、よその国にいながら応援できたらいいな、彼らが幸せな結末を迎えられたらいいなと、涙するような思いです」と話した。“
(2014年11月14日 スポニチアネックス「香港の舞台にバリケード 蜷川さん演出の高齢者劇団」より)
[これまでやってきたことをすべて伝えようとしていた]
――香港公演が2014年の暮れで15年はご病気のままたくさん公演を行いました。
「香港から医療用ジェットに乗って帰ってきたあと復活して、『ハムレット』『リチャード二世』『海辺のカフカ』『青い種子は太陽のなかにいる』『NINAGAWA マクベス』『ヴェローナの二紳士』。16年は稽古始めのころ入院してしまった『元禄港歌』、そして『尺には尺を』をやりました。亡くなる前の年は、俳優たちにいつも以上に激しく稽古をつけていました。とくに藤原竜也くんに。竜也くんのドキュメンタリーを見るとわかると思うけれど、もっとリアルにと言っていて。蜷川さんはリアル回帰になっていましたね。竜也くんほんと大変だったと思いますが、彼に最後に蜷川さんの演劇――これまでやってきたことをすべて伝えようとしていたことがわかるんですよね。そういう思いが最後の1年間にはあった気がして、それは凄まじいものでした」
――2021年、ゴールドとネクストが解散し、2022年、さい芸の芸術監督に近藤良平さんが就任しました。
「正直ね、蜷川さんが亡くなったあと何をしたらいいか考える時間が一番つらかったです。最初の一年はじつはすごく試行錯誤しました。ワークショップをやってみたり、ゴールドをどうしたらいいかと思ってイギリスに視察に行ったり。それでゴールド祭というフェスティバルを思いついたんです。17年の岩松了さんのゴールド公演『薄い桃色のかたまり』は亡くなる前から決まっていたもので、井上尊晶さんには19年蜷川さんが演出する予定だった藤田貴大さんの『蜷の綿』をリーディング公演をやってもらって。あれはよくできたものでしたね。その後、ネクストは若い演出家とやってみたり、ゴールドは岩井秀人さんとやったり、いろいろ試して……。そろそろ次期芸術監督を決めようとなったときに、蜷川さんのレガシィというけれどシェイクスピア以外は誰も引き継げないと僕は思っていたから、どこかで区切らないといけないなと考えました。ゴールドの男性陣が毎年のように亡くなりだして、残った方々もどんどん弱ってきて、そこにコロナが来たことで、決断が早まった気はします。ネクストは誰かほかの演出家に託すことも考えましたが、彼らももう10年もここでやったのだからそろそろ外に出るのもいいのではないかとも思い、シェイクスピアシリーズが完結する2021年にすべて区切りをつけることにしました。ゴールドは杉原邦生さんの演出で太田省吾さんの『水の駅』、ネクストは若い作家・細川洋平さんの戯曲を岩松さんが演出した『雨花のけもの』が最終公演になりました。じつは別の案もあったんです。ゴールドは第一作目の岩松さんの『船上のピクニック』を、ネクストとゴールドと合同で最後にやるという案があり、それともうひとつ隠し玉がありました。それは市川猿之助さんが演出してゴールドとネクストが出演する企画が進行していましたが、コロナで実現できなかったんですよね。それで『水の駅』にしたんです」
――こうして皆さん、それぞれの道を歩んでいくわけですね。
「蜷川さんと関わった人たちはみんなそれぞれ頑張っていますよね。ゴールドはパリ、香港、ルーマニアまで行ったことを誇りとして晩年を生きることができるでしょう。ネクストの俳優たちはそれぞれ外に出て活躍しているし、ネクストの前身のような蜷川スタジオにいた俳優やスタッフも活躍していますよね。『海辺のカフカ』でそれまで俳優活動を控えめにしていた柳楽優弥さんがカムバックしたことも印象的でした。蜷川さんがカムバックさせたと言ってもいいと思います」
――コロナで延びたシェイクスピアシリーズの完結がまだ残っています。
コロナで中断した『ヘンリー八世』の再演を秋にやって、その後『ジョン王』で完結となります。僕も最後まで見届けますよ。もう七周忌なんですねえ。早いなあ。……いやあ、この人とよくつきあったねえ(笑)」
[コクーンの思い出]
コクーンからさい芸まで長きにわたり、蜷川さんと伴走した渡辺さん。「コクーン時代はすごくパワーがあった」と言う。『零れる果実』(96年)で佐藤信との演出競作をやってから芸術監督に就任した蜷川さんは『パンドラの鐘』(99年)で野田秀樹さんと再び演出競作をやって話題になった。極めつけは9時間もの長時間大作『グリークス』(00年)。次々刺激的な企画をやって渋谷の演劇シーンを盛り上げた。
「『パンドラの鐘』は合同で記者会見しておもしろかったですよ。蜷川さんってそういうおもしろがり方をしてくれるからいいんですよ。野田さんとの競作は作家が演出するほうが有利に決まっていると言いながら、こっちが絶対おもしろいと内心自信をもっていて、コクーンのロビーにホワイトボードを出して、みんながふたつの感想を書き込めるようにしようと蜷川さんが提案し、『お前先書け』っていういうから僕がまず書きました(笑)。そういう企画は刺激的で、じゃあ両方観なきゃってなりますよね。実際、これまで野田作品ばかり観ていたが蜷川版を観て、はじめて『パンドラの鐘』の意味がわかったと言うお客さんもいました。蜷川さんは『そうだろ』ってにやりとしていて。自作品の評価へのこだわりもありますが、演劇界全体に刺激になるように考えていたんですね。そういうこところが蜷川さんの素敵なところでしたね」
蜷川さんの誕生日にスタッフ、キャストが有志で送った椅子
取材:木俣 冬
撮影:仲野慶吾