INTERVIEW

瀬戸雅壽 新しい天使の如く

隅田川左岸劇場ベニサン・ピットが2009年1月をもって
閉館する予定だそうです。
長らくこの場所に稽古場をもっていたニナガワ・スタジオも

この場所から去ることになりました。

初期スタジオの人々

左から
福田潔 明石伸一 飯田邦博 妹尾正文 堀文明 塚本幸男 野辺富三 井上尊晶

[両国は地獄 両国は極楽]


 2008年11月、渋谷Bunkamuraシアターコクーン、井上ひさし作、蜷川幸雄演出『表裏源内蛙合戦』で、こんな歌が合唱されていた。

舞台上では、両国橋のたもとにたくさんの人々が集い、賑わっている風景が演じら れている。商人や見せ物師、妙に痩せて瘡だらけの女と盲目の大男が相撲をしている まわりに町民が群がっている。皆、笑顔で陽気で、町は活況に見えるが、どこか禍々 しい……楽しいような哀しいような不思議な世界だった。

『表裏~』の主人公・平賀源内は当時、両国界隈で活動していた。隅田川が流れる両 国は江戸時代中期、17世紀以降、武蔵国と下総国(埼玉、神奈川、千葉あたり)をつなぎ、江戸を繁栄させるための重要な場所だった。色と欲が渦巻く、風俗の中心地で、 平賀源内は発明に励み、代表作のエレキテルも生まれた。

 源内が35歳の時、風来山人というペンネームで書いた『根南志具佐』四の巻冒頭には、この文章の前に随分と長く細かい両国の描写がある。人々の様子や、音など、両 国の街に満ちているありとあらゆる事象をつぶさに列記している。読んでいくだけで、 その場のごちゃごちゃした様子が目に浮かび体温が上がっていく。  蜷川幸雄の舞台は、井上ひさしの台本に源内のこの描写が息づいているのを嗅ぎ取っ たかのように、群集が放つ生命力に満ちていた。そして、演じる俳優たちも、1人ずつがその役割を全うしていて、どんな片隅にいても全力で生きている。まるで短距離 走に使うエネルギーを濃縮したように俳優たちは動きまわる。彼らの瞳はギラギラし ている。走っている間に理性よりも本能が勝ち、その本能が知恵を巡らせる。そうし て人間は、生きていく。源内も清く正しいわけでなく、色と欲にまみれている。同じく井上ひさしが書いた『天保十二年のシェイクスピア』の佐渡三世次も、『藪原検校』の杉の市も人を欺き、殺めながらもしぶとく生きていく。徹底的に悪を遂行していく姿は半端な善行よりも崇高な煌めきすら覚える。まさに、地獄で極楽だ……。

 人間の清濁を突きつけられながら、数時間前、この地獄で極楽の舞台・両国を歩いたことを思い出す。

 その日、私は両国駅を下り、ベニサン・ピットを訪ねた。

 2008年の終わり、両国からの道はマンション建設現場が増え、いわゆる下町の雰囲気は減っている。最近来るたびに、工事現場が増えているようにも思う。でも、依然として、錆び付いた昭和の風情を遺す工場や建物なども点在している。小さな河では魚を釣ってる人がいた。

 ベニサン・ピットはこの地に戦前からあった染色工場のボイラー室を改装した劇場だ。染色工場を営んでいたのは株式会社紅三。70年代、東京の公害問題が深刻化した際、工場を地方都市に移した紅三の社長は、残った建物を松竹に稽古場として貸し出した。数年後の1985年、ボイラー室跡を利用してベニサン・ピットという劇場が作られた。こけら落としは、坂東玉三郎による地唄舞など。江戸時代、見せ物小屋なども建って賑わっていた両国に、両国国技館というエンターテインメントの場の他に劇場が生まれたことを区長も喜び、祝いの言葉を贈っていた。

 85年は、ちょうどその両国国技館もリニューアル。電電公社がNTTに、専売公社がJTにと民間事業に変わった。男女雇用均等法により女性は勇気づけられた。つくばでは科学万博が開催された。戦後40年、何かが変わる希望に満ちた年だった。

 新宿にはTHETER/TOPS、表参道には青山スパイラルホール、大阪には扇町ミュージアムスクエアという文化施設が続々オープンした。ベニサンもそのひとつだが、ビルの中に入った施設ではなく、長年、多くの人が使った痕跡が建物に宿っているという点で、他の劇場とは一線を画していた。  ニナガワ・スタジオ、TPTなどがここで実験的な演劇を行った。アンジェイ・ワイダが坂東玉三郎主演の『ナスターシャ』を上演したことも80年代後半の演劇的事件のひとつだ。そういった活動により、演劇ファンとしては “ベニサンではハイレベルな演劇を観ることができる”という信頼があった。

 2008年6月、蜷川幸雄が彩の国さいたま芸術劇場のゴールドシアター公演で行った
『95kgと97kgのあいだ』の初演は、85年、ベニサン・ピットだった。

 蜷川は常々「ベニサンの支配人・瀬戸雅壽さんが“あなたはがんばっているから”と言って稽古場を貸してくれた」「稽古中、アタマを冷やすように氷を差し入れてくれたり、作業中、揚げたてのコロッケを差し入れてくれた」などと言っていたので、瀬戸さんの話を聞いてみたいと私は以前から願っていた。

 ベニサンの建物と建物の間に鉄製の階段があって、一階は細い路地のようになっている。いつでもそこは薄暗い。顔を上げると、階段のすき間から光が漏れていて、逆行で風景がモノクロに見える。私には、この路地が、現実と異世界の間に空いた溝のように思えて、そのどこでもなさが居心地がいい。そこから、楽屋や流し、事務所につながっている。流しに置かれた洗濯機はまだ二層式だった。古いけれど、掃除がいつも行き届いていて、日当たりがすごくいいわけでもないのに澱んだ感じがまったくしない場所だ。
 
 瀬戸さんは、事務所のドアの鍵を開け、中に入れてくれた。本当は、現在、事務所は別の場所に移転しているそうだ。

「“あなたはがんばってる“なんて言い方はできないですよ、蜷川先生に」と瀬戸さんは笑った。瀬戸さんは、蜷川さんより10歳ほど年齢は下だそうで、「蜷川先生」と呼ぶ。後で蜷川さんに指摘されて、私が勘違いしてたことがわかったが、そう言ったのは紅三の専務・亘理さんだった。当時瀬戸さんは亘理さんの下で働いていた。

「『タンゴ・冬の終わり』(84年)を観て、こんな演劇があったんだ!と圧倒されたんですよ。当時、紅三では、年に一回観劇会というものがあって、社長が社員に、社員教育の一環として、芝居を見せてくれていたので、演劇には興味がありました。でも『タンゴ~』は、ぼくがそれまで観たものとはまるで違っていて、気持ちが高揚しました。蜷川先生が『タンゴ~』の稽古をベニサンでやっていたので、話す機会があって、“ちょうど50歳になったばかりで、新たに劇団を作った。とあるスタンドの二階の狭いところで稽古をやろうと思っている”と言うので、うちには空間が余っているから、使ってくださいと持ちかけたんです」

 そして、ベニサンの五階の屋上に建て増したような四角い白い場所にGEKISHA NINAGAWA STUDIOのプレートがかかった。その中に50歳になったばかりの蜷川幸雄と多くの20代の若い俳優やスタッフ志願者が集い、日夜熱い稽古が続けられた。

「あそこは元々、女性社員の着替え室やカルチャールームとして使っていたんです。そこで充分だと先生は言うので、改装して使ってもらうことにしました。当初は、興味津々で稽古を見学しましたよ。先生が熱くなって靴を投げている姿も目撃しました」

 改装前のこの一室には風呂があり、床は畳だった。風呂後に事務所、畳を板張りに変えて稽古場が誕生した。

 その頃、『K2』(84年/サンシャイン劇場)という、菅原文太と木之元亮主演の舞台があり、その稽古が元ボイラー室で行われた。稽古場の屋上から見下ろせる場所に茶色の壁のボイラー室はあった。そこから巨大な煙突が誇らしげに立ち、稽古場を見下ろしていた。

「山を登る芝居だったので、一階と二階の間仕切を全部切ってできた空間に山を作ったんです。それを見た蜷川先生が、“この感じがいい。ここを使って是非実験劇場を行いたい”とおっしゃって。それで行われたのが『稽古場という名の劇場で上演される三人姉妹』(84年)でした。先生は、いきなり扉を開放して、外からリモコンで模型のヘリコプターを中へ飛ばしてね……、ヘリは劇場の上空をグーッと一周してまた外へ出ていった……あの光景は忘れられないですよ。『タンゴ~』に次いで、これもまた今まで感じたことのない思いを感じる演劇でした」

 そして、蜷川はこの空間を劇場にすることを提案した。

「稽古場として機能していたベニサンに劇場を作ったのは、蜷川先生なんですよ。江東区役所に劇場を作る許可をもらいにも一緒に行ってくださいました」

 江東区に初めて劇場が誕生した。坂東玉三郎によるこけら落とし公演の後、ニナガワ・スタジオによる『95kgと97kgのあいだ』が上演された。ここでの工場営業が停止して以来、下町の民家の一角に人の波が戻ってきた。

 ベニサンで思いきり実験を行い、他の劇場公演にも応用する。それが当時の蜷川の演劇の作り方だった。ヘリコプターもその後ファッションショーや帝国劇場『にごりえ』などで使われた。

「ニナガワ・スタジオは、常に新しいことをやっていました。時には、劇場支配人として許容範囲を超えるようなこと(苦笑)にまで挑んでいた。最初に雨を降らせたのも蜷川先生です。遠藤ミチロウさんと組んで行った公演も、ドアを開けて轟音を鳴り響かせて、近隣の住民の方達に文句を言われました。でも、当時の住民の方達はなんだかんだ言いながら我慢してくれたんですよ。今は、新興住民が増えて、ちょっと和太鼓のリズムが響いたくらいでも文句を言われるので、昔のように暴れてもらえなくなりました」

そう言った後、瀬戸さんは「もっとも、最近の劇団は暴れる人もいないですけど…」と少し寂しそうに呟いた。

 ベニサン・ピットを使う劇団は支配人の瀬戸さんが選ぶ。30人くらいしか入らない小さな劇場まで見に行って、劇団探しをしていた。ここで69作も公演を行ってきたTPTや、二兎社をはじめとして、ベニサン・ピットには新鮮な血が流しこまれ続けた。

「元気があって、一生懸命に打ち込んでいて、何か新しいことを作っていこうとするパワーに触れると、応援したくなるんです」

 毎年暮れには、ゆかりの人々を集め餅つき大会を行い、お餅をたくさん振る舞った。

 近年、「是非ベニサンへ!」と瀬戸さんが思ったのは、劇団桟敷童子。彼らの徹底的に舞台を作り込んで、現実と別世界に仕立てあげる心意気に惹かれて、劇場を提供した。

「蜷川さんの芝居に惹かれるのは、中途半端なことを決してしなくて、いつも豪快。やると言ったら徹底的にやるところですね。明治座で見た『近松心中物語』なんて、雪を膝丈くらいまで積もらせていて、凄かったですよ」

 最近は、ベニサンで公演することがなく、蜷川さんはオーディションとエチュード発表などで年に数回訪れるだけになっていた。でも、蜷川さんはいつも「ベニサンが好きだから、自分ひとりでも家賃を払い続けて維持する」と言っていたし、ベニサンの駐車場には蜷川幸雄専用の場所があり、そこはいついかなる時も蜷川以外は誰も車を停められないことになっていた。そして、家賃は、時代を経ても、値上がりすることはなかった。

 2008年3月に行われたニナガワ・スタジオのオーディションは応募者多数のため、今までにない2日間に及ぶものになった。その時、瀬戸さんと久し振りに会った蜷川さんは「また戻ってくるからがんばって」と言ったそうだ。

「また戻ってくる」と約束を交わした矢先、ベニサン・ピットは閉館することになった。

 7月末、『道元の冒険』の千秋楽に、瀬戸さんはシアターコクーンの楽屋に蜷川さんを訪れ事情を話した。

 8月上旬、新聞でベニサン・ピット閉館の記事が掲載された。建物の老朽化のため と書かれていた。

 スタジオの責任者である井上尊晶さんは、「亘理さんと瀬戸さんのご厚意で長年稽 古場を使わせて頂いてきたことを感謝しています」と10月25日に稽古場から荷物を撤去した。細い階段に行列を作り、五階から階下に巨大な荷物をバケツリレーのように運んでいる姿は、リアル『95kgと97kgのあいだ』のようだった。

「昭和30年代のコンクリート建築はもろい。表面的にはまだ保ちそうに見えても、中は壁の中に水が浸食していて、思わぬところから水漏れします。ヨーロッパは石の建築文化と比べて、日本のコンクリート建築は長持ちしないですよ」と瀬戸さんは言う。

 昨今の異常気象の中、地震で壁が崩れて近隣に迷惑がかかってはいけないという危機感、ゲリラ雷雨時の雨漏り対策など、頭を悩ますことが増えた。そういった事柄の他に、瀬戸さんは、劇場や稽古場を使う人たちが空けてしまった穴などを地道に修理し続けていた。

「ニナガワ・スタジオの稽古場の壁にもあちこち穴が空いていますよ」と言うと、

「穴が空くなんて日常茶飯事ですよ。直してもキリがない」と笑った。

 そういえば、劇場のシンボルのようだったあの煙突が2年ほど前に取り壊されていた。屋上にあがった時、煙突の土台を見下ろす形になることが寂しかった。

「そりゃあ寂しいですけど、あれも倒壊でもしたら大惨事になりかねませんからねえ……」

 20世紀が終わって10年近く経ち、東京の風景はどんどん変わっている。銭湯は減って、煙突はずいぶんなくなった。昔ながらのツノは折れ、代わって、ツルッとキレイなビルがどんどん屹立している。

 
 瀬戸さんに話を聞かせて頂いた後に、渋谷に向かい、『表裏源内蛙合戦』を見た。

 両国のシーンがとても印象深かったのは、ベニサンに行ってきたばかりだったからなのだろうか。昔の両国橋のたもとは、今の渋谷スクランブル交差点だろうか。
 
 この芝居に裏の源内役で出演している勝村政信はニナガワ・スタジオ出身だ。スタジオ初期のチラシに屈託のない笑顔の写真が載っている。他に、大石継太、飯田邦博、塚本幸男、堀文明、野辺富三、田村真、高橋努、羽子田洋子、難波真奈美、太田馨子などがスタジオ出身者だ。ベニサンの稽古場で、エチュードを行い、うかうかしていたら役がなくなる厳しい状況に常にさらされ、少しでも高く、少しでも遠く、自分を越えていくことを蜷川に課せられてきた俳優たちだ。

『源内』の後半、勝村政信は、せっかくの仕官のチャンスに迷う表の源内に〈出世はこの世の美しい花〉と鼓舞する歌では、歌を越えて叫びのようになっていた。その憤りのエネルギーは私の心を殴り続けるようで、簡単に消えない鈍い痛みを刻みつけた。

大石継太は群集で歌うシーンでも埋没しない。決して息も抜かずに表情をどんどん鮮やかに変える。堀文明、飯田邦博、塚本幸男や羽子田洋子たちは、江戸時代に生きる人間の姿をつま先まで神経を使って演じている。田村真は、あごひげを剃ることが恥ずかしいのだと以前言っていたが、ツルリと剃って、江戸の行商人をテンション高く演じていた。そうそう、痩せた相撲取役の茂手木桜子も先輩達のようなエチュード合戦の体験はないが、スタジオのメンバーだ。オーディションで羊の帽子をかぶって演技をして蜷川に叱られたエピソードを持っている。役を変えられたり、作ったエチュードを見てもらえなかったりと苦い経験を味わいながらも諦めず稽古場に通い、『道元の冒険』『源内』と連続出演を果たした。

 彼らは、源内と同時代、歴史に名を残すことはないが共に命を燃やした人たちを演じている。彼らが、最後に〈美しい明日を お前は持っているか〉と問いかける歌を合唱する時、誰もが強く前を向き何かを睨むように見えた。それは希望というよりも、怒りに、私には思えた。

 ベニサン・スタジオが閉館することを惜しみ、存続のための働きかけをしようと動き出そうとする人や、お別れの公演をキチンと打とうと考える人たちがいる。その一方で、ベニサン・ピット誕生のきっかけを作った蜷川幸雄と、そこで過ごしたスタジオ出身者たちは、今、自分たちのいる場所で、演劇を通して、今の時代に問いを突きつけているように思えた。

 その問いの源流は、怒りでもあり、それでも生き続けなくてはいけないという意志でもあるように、グツグツと燃えたぎっている。今、我々にできることは、動きを止めないことだと、『表裏源内蛙合戦』を通して蜷川幸雄と俳優たちは決意表明していたのではないだろうか。そして、両国・隅田川左岸に息づいた劇場への想いもこもっていたのではないだろうか。

 景気の悪化、誰でも良かったという動機の希薄な殺人の増加、漫画好きと公言する首相の軽薄な発言の数々、お笑い芸人だらけのテレビ番組、それを作るテレビ局が手がけるテレビドラマのような映画、ロスジェネと言われる世代……煙突のなくなった2008年の日本の風景……。そこへ、『表裏源内蛙合戦』は、エロ・グロ・ナンセンスの毒をまき散らす。

 いや、これはもしかしたら薬にもなるのかもしれない。地獄と極楽が紙一重のように。

 両国と渋谷が、江戸時代と70年代と2008年が、つながった。

 演劇人ではない、文筆を生業にしている私に何ができるのか。

 記録を遺し、少しでも多くの人に何らかの思いを喚起してもらうことなのかな、と考えた。

 刻一刻消えていく時間へのノスタルジーではなく、先に進むための歴史の記録として、ベニサンの記憶を遺したいと思い、支配人・瀬戸雅壽さんの許可と蜷川幸雄さんの確認を得て、お話をWEBに掲載させて頂きます。



2008年12月2日