INTERVIEW

大石 継太 強かな民衆としてーー

 蜷川幸雄と仕事をして23年。
 ニナガワ・スタジオ(GEKISHA NINAGAWA STUDIO)創立メンバーで、04年に卒業するまで中心メンバーとして活動。そして今も、蜷川演劇を体現する俳優のひとりだ。
 蜷川の元で何を学びましたか?と聞くと、そう簡単には答えられないと間を置いてから「……芝居に対する清潔感? 真摯に取り組むというか…かなあ」とボソッと答えた。
 07年は『恋の骨折り損』のコスタード、『お気に召すまま』のシルヴィアス、
ふたりの素朴な田舎者を演じた。どちらも、真摯で清らかで、少年のようだったと言うと「40歳過ぎて少年ぽいっていうのもどうなんでしょう?」と苦笑した。その顔もまたはにかむ少年のようと言うと怒られてしまうだろうか。半ズボンから膝をむき出し、大きめのブーツを履いて飛び回る姿が似合う40代は貴重だと思うのだが。  コスタードもシルヴィアスも大石の演技はとても印象に残った。
 特にコスタードは、“時代の傍観者”だと蜷川は言い、とても重要視されていた。


[プロフィール]

大石継太 Keita Oishi

10月18日生まれ。大阪府出身。1983年GEKISHA NINAGAWA STUDIO(現ニナガワ・スタジオ)に参加。以後、数多くの舞台に出演する他、映画、ドラマ等でも活躍。舞台では、蜷川の他、鵜山仁、木野花、鈴木勝秀、鈴木裕美、坂手洋二、野田秀樹、マキノノゾミ、松本裕子等数々の演出作品に出演している。近年は『ウィンズロウ・ボーイ』『サムワン』『第32近海丸』などに出演。蜷川演出舞台は『血の婚礼』『三人姉妹』『王女メディア』『マクベス』『ハムレット』『近松心中物語』『夏の夜の夢』『KITCHEN』『恋の骨折り損』『お気に召すまま』など多数がある。

2007年10月17日~11月4日 新国立劇場 3つの悲劇―ギリシャからVOL.2『たとえば野に咲く花のように アンドロマケ』(鄭義信/作 鈴木裕美/演出)に出演する。

[笑いは難しい]

『恋の骨折り損』は王様とご学友4人と、他国から使節としてやってきた王女と従者4人の恋の駆け引きを描いたコメディー。最初、コスタードは上流階級の道楽に巻きこまれてしまう。

「最初に、王様の発令した女性と一緒にいてはいけないという禁をやぶったコスタードは連行されてしまうんです。その時、蜷川さんに“笑ってろ”と言われたんですよ。“明石家さんまさんとか大阪芸人みたいに”って。それが民衆の強さってことなんでしょうかね。逆に哀しさだったりもするのかもしれないけれど」

コスタードは単なる上流社会の犠牲者でなく、世界を相対化する道化的な役割をしている。

「王女たちの会話を聞いて、“俺たち(田舎者)より下品なことを言ってる”って批評するんですよね」

批判者であることを生かすために工夫した場面があった。王様のご学友・ビローンが、思い人・ロザラインに宛てた手紙を、間違えて他の人に渡してしまったことから、恋愛禁止令が守られていないことが判明してしまうという場面だ。

「字も読めない田舎者が本当に間違えて手紙を取り違えてしまったとも解釈できるし、知っていてわざとやったとも解釈できるんです。正解は戯曲に書いていない。どっちにしようかと思って、道化っていう役割もあることから、わざとやったというほうを選択しました。蜷川さんにはこう思ってやっていますとは言っていません。見えたものがすべてだから。こう思ってやっていますがいかがなもんでしょう?と問いながら芝居はしたくないんです」

コスタードの科白に〈来たれ、幸運の苦き杯よ、そのうち苦難が微笑みかけてくれますように〉というものがある。民衆のしたたかな目線が、作品を貴族たちのお気楽な恋愛コメディーだけでないものにした。でも、根っこは喜劇。 真面目に時代を斬るのではなく、笑いの中に本質が滲み出る。

「笑いって難しいですよ。ある種のイメージをもった俳優が意外なことをやっていることがおかしいと言うギャップの笑いは演劇の笑いではないと思うんです。あくまでまず役があって、その役が物事に対してどうリアクションするかでおもしろさが出たらいいなと思ってやっています。そういうことに気づいたのは『近松心中物語―それは恋』(99年)で与平衛をやった時でした。お客さんの笑いは救いにもなりますが、それにのっかっていくと、芝居が変わっていてしまう。稽古でいろいろな選択肢を試して決定したことが、本番での揺らぎを防ぐ唯一の指針になるんです」

とはいえ稽古の試行錯誤の中で、突然ラップが盛り込まれた時は戸惑った。 韻を踏んだ手紙の文面をわかりやすく観客に届けるためにラップ調になったのだ。

「浮かないように、あくまでコスタードが楽しんで遊んでいる感じにしようと思いました。ラップのかけ声“YO”と“与野本町”をかけて、“YO YO~~YONO HONMACHI“としたのは藤井びんさんのアイデアですが、地方公演では、どう言うのか?ってことをやたらといろいろな方から気にされて、そんなことどうでもいいじゃないか、芝居の本質に関係ないんだから…と思ったりもしましたよ(笑)。でも、北九州で”KITA KYUSHU“って唄っていたら、蜷川さんに”意外性がない“とダメ出しをされまして。大楽の日の前日に。蜷川さんはあとワンステだとしても、やるからにはどんな部分もおろそかにしないんですよね…」

[泣くのは恥ずかしい]

『骨折り損』では笑った大石は、『お気に召すまま』では泣いた。
 物語は、森の中でたくさんの片思いが巻き起こるというもの。大石演じるシルヴィアスの思い人は別の人が好きなので片思いに苦しんでいる。クライマックスでは恋する者たちが集まり、感極まって切ない思いを吐露する。シルヴィアスは〈恋とは溜め息と涙でできてるもんだ〉とか〈純潔と試練と従順でできている〉などと、哲学的なことを言う。

「蜷川さんに、“継太、泣け!”って言われたのが印象に残っています。シルヴィアスってそれまでもひたすらフィービーに夢中で、そういう演技をするのもなんだか恥ずかしかったんです。3年前の初演(04年)の時でも既にいい年齢してって……って思っていました。その上、泣くなんて恥ずかしくて……。あれから3年経って今回はますます恥ずかしかったんです」

しかし、見ている者は、シルヴィアスの震える思いに胸を打たれ、この場面は、初演も再演でも名場面になった。
 蜷川演劇の神髄のひとつ「芝居に対して真摯に取り組むことで生まれる清潔感」が滲み出た場面だ。
 そこに至るまでのシルヴィアスは、ひたすら傾斜のきつい舞台の上を走り回っている。思い人の面影を追って。
 大石は「スラップスティックをやって」という蜷川の要求に応えた。その体を張った懸命な人を恋する思いが、〈恋とはーー〉のシーンでピークに達して、心を震わせる。

[スタジオのはじまり]

稽古中、『お気に~』でも『骨折り損』でも、喜劇らしいおかしみを稽古場全体に充たそうとする時、蜷川は大石に稽古をつけた。それによって場をあたためたり、蜷川が求める喜劇的な雰囲気、それから、蜷川に否定されることをおそれずいろいろなアイデアを提案する場であることを全体に知らしめる…という様々な意図があったようだ。

「単純に僕の芝居ができてないからっていうこともありましたし、蜷川さんと芝居をやって長い僕に、稽古場での居方を、慣れていない人に知らせるような役目があるのも多少は自覚していました。でも、僕だってあんまりダメ出しされるといっぱいいっぱいになってしまうんですよ。いっぱいいっぱいになりたくないから、蜷川さんに“うるせえ”とか、憎まれ口みたいなことを言ってるんです。インターバルを置きたいんですね。蜷川さんもそれはわかっていると思います」

見ていると、蜷川は何か言われてしょげるよりも、憎まれ口を叩くくらいの人が好きのように思える。小栗旬などは若い俳優の中では物怖じしないで蜷川に絡んでいくほうだ。

「ぼくらが今の小栗君と同じくらいの年齢の23、4歳くらいでニナガワ・スタジオに入った時は、強気なことなんて言えなかったですね。“ジャイアント馬場に10回犯されろ”なんていうダメ出しも笑えませんでした。蜷川さんのことが怖かったですから、必死に聞いていました。僕は当時“ゆでたまごみたいな顔してる”っていつも言われていたんです。いまでいう“コンビニ俳優”みたいな意味なのかな、毒とか個性がないってことだと思います」

スタジオ創立の頃は、個性的なギラギラした俳優たちが多く、大石は普通すぎる存在だったと言う。

「それこそ『タンゴ・冬の終わりに』初演(84年)の映画館の観客役が最初の出会いだから、あの群集の中からどうやって目立つのかってことが問われていましたが、僕は地味だったと思いますよ。蜷川さんにも覚えてもらえてなかったんじゃないかな」

大阪芸大で芝居をしていて卒業後の進路を考えていた大石は、偶然大学の先輩の紹介で『タンゴ~』に出演することになったことをきっかけに上京した。『タンゴ』終了後、スタジオのオーディションを受けて合格。蜷川と共に歩むこととなる。
 初期作品で印象に残っているのは『虹のバクテリア』(87年)。

「宇野イサムくんのホンが好きだったし自分に合っているかなと思ってました。『バクテリア』では、バカ役。バカがいっぱい出てくる芝居で、僕は武器なしの天然バカをやりました。『お気に召すまま』『恋の骨折り損』にも出ている岡田(正)ちゃんは、おばちゃんバカをやっていました」

しかし、スタジオはとても厳しい場だった。

「最初の頃は、変わったことをしなくちゃいけないと思って方向性が見えなくなってしまったこともありました。自分では右に行きたいけど左に行かなくてはいけないと無理していたこともありました。役の取り合いもあるんです。すべての役にオーディションがあって、駄目な人はすぐ首になっていました。最初はダブルキャストだったのに、やっていくうちに、淘汰されて、シングルキャストになることもありました。自分が出ているからチケットを買ってもらっていたのに出られなくなってしまうんですよ。だからなのか、劇団員同士で仲良くなるのは悪いことではないとはいえ、仲良しごっこはありえませんでした。ある時、僕がダブルからシングルに勝ち残った時に、仲良かったはずのもうひとりの人から急に冷たくされたという経験もあります。そんなことはしょっちゅうでした。稽古場に劇団員を集めて、車座になって、“おまえとおまえはいらない”とか“おまえは芝居をやらないほうがいい”“おまえはやりたいならどこか他でやればいい”とか“この世界ではまたどこかで会うこともあるからな”って言われることもあった。そうすると皆荷物もって出ていくんですよ。そんな時僕は、蜷川さんと眼があったら言われると思い、こわくて、ずっと下向いていました。で、みんな帰ったあとに、“じゃあ、稽古いこう”って何もなかったようにはじまるんです」

そういうことを経て大石も変わっていく。

「急に役をふられて、科白が出なかったら終わりなんです。せっかくチャンスをやったのにって。だから科白を常に覚えて、“科白覚えてるやついるか?”って言われたら手を挙げていました、こんなに性格の弱いおれなのに(笑)」

気がつけば少し強くなっていた。
 築地本願寺での『オイディプス王』の時、100人くらいのコロス役の中から、最後に出てくる家来の5人くらいに選ばれた時は、他の人に「なんで手をあげないんだよ?」と自ら言うようになっていた。

「蜷川さんにちょっと鍛えられたのかもしれません」

“蜷川幸雄に反旗を翻す公演”という主旨の公演やったこともある。蜷川は見に来てくれたそうだ。人づての感想は一言「バカ…!」だった。
 転機は91年。31歳になっていた。

「蜷川さんから離れて、ザズウシアター公演に出たんです。ちょうど『待つ』の準備をしていたのに、それには参加しないで…。しかもスタジオを辞めた松重豊と勝村政信との共演でした。でも、その千秋楽が終わって次の日に稽古場の見学に行ったんです。終わってすぐ来たことが蜷川さんやスタジオ公演に興味があるんだと感じてもらったのかな。クビにもならず『待つ』にも参加させてもらったんです。そんな体験を経て次第に、なぜか、蜷川さんのダメ出しに何か言えるようになっていきました」

以後、何度かあった解散、新規出発の中、スタジオの中心メンバーとして、
蜷川と走り続けた。

「クリスマスも正月も稽古していました。なんでクリスマスに君と?って感じで。一月に『待つ』シリーズはあったんですよ。エチュードつくってダメだったら、敗者復活で、また違う作品考えなくちゃいけないし、さっきも言ったけど本番でもダメだったらおろされたりしまうから、気を抜けないんです」

劇団員同士の呑み会を好まない蜷川に隠れて稽古が終わるとこっそり皆と呑み、なんだかんだと愚痴ったりもしていたそうだ。でも、蜷川自身が突如忘年会や新年会をやろうと言いだしたこともあった。いろいろ変化をしながら集団は続いていった。
 2004年にスタジオを卒業することになった後も、周知のように蜷川演劇を支える。
蜷川と走り続けた。

「僕は最初から蜷川さんの芝居が好きでスタジオに入ったわけじゃなくて、やっていくうちに好きになっていったんです。すぐ傷つくことを言う蜷川さんの人格は疑問だけど(笑)、蜷川さんの芝居が好きなんです」

そう言った瞳は「ヘヘヘ」という声が聞こえそうな悪戯っぽい光を放った。
「あ、邪悪な眼をしましたね」

「人には腹黒いって言われますよ」

「腹黒いって自分から言う人に本当の腹黒い人はいないですから(多分)」

「僕は庶民ですから。いろんなことに嫉妬したりもするし、気にしたりしながら生きているんですよね」

自分では喜劇が得意だとは思っていない、と意外な発言をした。

「蜷川さんのとこでは喜劇のイメージがあるかもしれないけど、どっちかというとナイーブな芝居が好きんなんですけど…蜷川さんは僕がナイーブだなんて思ってないんですよねえ……(笑)」