激流 / 蜷川幸雄2006-2007
[蜷川幸雄 インタビュー3 2006年晩秋から冬]
〈ニナガワ・スタジオ〉のはじまりは、84年。その年上演された『タンゴ・冬の終わりに』の幻の観客役の出演者からメンバーを募った。初演は大石継太や大川浩樹、86年再演には、石丸さち子、岡田正などが参加していて、以後蜷川演劇を彩る存在になる。
74年に劇団を解散し、商業演劇に向かった蜷川が、『タンゴ』で劇団仲間・清水邦夫と再び仕事をしたことで話題になった。10年間ひとり商業演劇で芝居を続けた蜷川が、もう一度自分の集団を持ち、小劇場の表現に取り組むきっっかけとなったのが『タンゴ』だった。
今回の『タンゴ』の稽古を見学に来ていた大川浩樹は、22年前のクライマックス、幻のパートナーを求めてひとりでタンゴを踊る青年達のひとりを演じる時、大泣きしたと言う。照明合わせの時に、客席に座りキレイだなぁと思って観ていたら、隣に蜷川が座り「今度劇団をつくるんだけど、来ないか?」と誘われた。それが俳優の日々のはじまりだった。
若者たちにスローモーションの稽古をつけた新川將人は、スローモーションの時、皆が前に出ていく中、自分だけ背中を向け、舞台奥に向かって走り出した。その動きを蜷川は評価した。新川は若者がスローモーションで動く時、「負けない!」という表現を使った。物理的な重力はもとより、精神的重力にも負けない姿勢が、蜷川の舞台を支える。
『タンゴ』には出演していなかったが、蜷川の演劇レッスンを受けていた清家栄一は、『タンゴ』の稽古を毎日見に来て泣いていたそうだ。
20年以上経った今、彼らはまだ蜷川の激流を泳いでいる。
『タンゴ・冬の終わりに』について蜷川は一気に喋った。最近の作品だし、そろそろ稽古場に意識を戻したいのかもしれない。
「『タンゴ・冬の終わりに』の初演(PARCO劇場84年)は、劇団が解散してから10年経って、清水邦夫と再会した作品。お互いにちょっとある種の緊張もあったし、この10年でお互い何をやってきたのかという個人的な総括をする作品でもあった。それを今、再演する時となれば自ずからやる意味は変わってくる。時代状況も違うし、既に再会しちゃった後だから(しかも、05年には、劇団解散の出来事と関係のあるいわくつきの作品『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』を上演したことより、蜷川と清水、集団の意識には変化が起こっている)。では、今、やる意味はと考えた時、ぼくらの個人的な状況論は別にして、普遍的なものが残っているだろうか?と。そうしたら、意外と鮮明に残っていたのは愛情の物語だった。もうひとつは、イギリスでやった時(86年)に、大勢の人間を使えなかったことへの後悔。ウエストエンドの論理を受け入れたままやってしまったために自分の作品がやせ細ってしまった。ピーター・ブルックは評価してくれたけれど、あそこには本当のおれはないと思っていた。妥協した自分に対しての深い後悔がずーーーと尾を引いていて、それを払拭したかった。アジア村から出てきた田舎っぺが、ロンドンという都会に負けたんだ。本当の意味の国際性とは、枠組みに対して闘うべきだって思ったんです。そうして自分の演劇を甦らせたかった。今後、外国でやるときぼくは決して妥協しないってことを証明したかった。一種の自己確認ですね」
「イギリスに行く『コリオレイナス』への布石にもなったということですね」
「45人のキャストと、スタッフをいれて60人っていうのは、今までの海外公演の中で一番多いんです。アジアってこともふくめ、自分も含め、民衆対僕、じゃなくて、民衆と指導者の関係を明瞭に出したいですね」
「そういえば、『タンゴ~』にも指導者(黒マスク)が出てきますね」
「あれは、劇団の指導者みたいなものですね」
「初演は蜷川さんが演じられたそうですが、今回やらなかったのはなぜ?」
「やらないよ。恥ずかしいじゃない。あの時は少しでも多く話題をつくろうと思っていたから珍獣として出演した。演劇人としての商売ですよ(笑)。今回は、コクーンでのぼくの公演が認知されているから、わざわざ僕が出る必要はなかったんです」
「打ち上げの席で新しい表現に出会えたとおっしゃっていましたね」
「再演する時は、だいたい演出を変えているけれど、『タンゴ~』は、音楽も装置も同じにした。でも、やってみたら演技だけは変わっていた。僕らの時代は情念が激しくのたうっているような表現が好まれていたけれど、今の時代はそういうのは過剰で暑苦しいと思われているよね。その感覚の違いから俳優の戯曲のアクセントのつけかたがまったく違ったんだ。でも、それはそれで成立するんだと思った。再演とはそういうものなんだね」
例えば、孔雀をみつけた(実はボロボロの座布団)清村盛は、平幹二朗だと「おお!」と大きな身振りで発見の喜びを表すが、堤真一は静かに嬉しそうに抱きしめた。蜷川はそれが印象的だったと言う。
その一方で幻の観客を演じた若者たちは熱かった。
「あれだけみんながうまく理解してくれて、個々の演技を自発的にやってくれてとってもよかった。彼らに出会えてよかった」
「やはり今年は、88人の若者とゴールドの老人がかなり印象深かったですね」
「ゴールド・シアターでは、俳優を職業としている人間と、そうでない人間とでは、生活者としての表現に差があるだろうかということを確認したい。それは実際、一回目、二回目と経つにつれ明瞭になってきた。やはり同じ60歳でも決定的な差があるのがわかってきた。いわば、そういう立ち位置に違いのある人間たちを組み合わせた“ドキュメンタリーを使ったフィクション”だと思っているんですね。体力がどこまでもつのか、いつ台詞を忘れてしまうのかわからないというリスクも含めて、演劇的な枠組みを最初から崩して作ることがおもしろい。こんな本格的な作品を“発表会”と表現した記者がいたけれど、違うよ、公演だよ、命かかってるんだぞ!と厳重抗議したい(笑)」
「またジャーナリスト批判を……」
「そういうわけじゃないけど…おれたちは批評されるけど、批評の批評って存在しないじゃない。それってフェアじゃないと思うんだよ。…それはともかくとして、ゴールドでやってることは発表会なんてゆるいものじゃない。公共の劇場でやっている集団化の模索。それはさまざまな“日本のこれから”を抱えている。つれあいや家族の介護の問題もはいっているし。たとえば、家族が集中治療室に入っているのに、稽古に来ていいのかとか。人生まるごとのなかで、さてどこに行こうかと、よろよろしながらやっている集団なんですね。これからもどこにいくかわからないけど、職業的劇団になっていくでしょう。あともうひとつ強調しておきたいのは、『鴉』で、最後に、闘わなくなった若者のために闘った老婆たちが自分たちが若返るしかしょうがないと若者に変身するシーンで、カンパニー(スタジオ)の20代の若者たちを起用したこと。老いた世代と若い世代のふつつの世代が存在した。これはとっても稀な効果を生んだ。人生も演劇的な経験も含めて、ひとつの空間の中に、ふたつの40人近い集団が。ここは、そういう壮大な実験のできる得難い空間だな。老若男女80人がいる空間なんて世界中にないだろうって、わくわくしながら思ったよ」
「『途上』の時、老人が水槽から這いだしてきて走り出すところと、『鴉』で最後に若者が立ち上がるところ、泣きました」
「いいよねぇ」