2017・待つ/9人の俳優たちの座談会

plologue 9人、〈待つ〉を語る。

 2017年のはじめ、『2017・待つ』の中心になる9人の俳優に集まってもらいました。あいにく、大石継太さんと塚本幸男さんが芝居の稽古中で参加できず、別途ふたりで対談することに。
2回に分けて、7人の俳優と大石さんと塚本さんが語るそもそも話は、短い時間では語り尽くせないものでした。ほんの一部ではありますが、その濃密な記憶を聞いていると、あの時のことが積み重なって今があることを感じます。

閉館前、2008年暮れのベニサンスタジオ

<photo higuchi hiroaki>

PART 1
飯田邦博、岡田正、新川將人、清家栄一、妹尾正文、野辺富三、堀文明
+井上尊晶


——14年ぶりに『2017・待つ』をやることになったいきさつを教えてください。

岡田 蜷川さんが亡くなったとき、斎場から『尺には尺を』(以下『尺尺』)の稽古場に向かう電車の中で、(大石)継太と、俺たちこれからどうしたらいいんだろうって話をして、そこから『待つ』をやろうってことになって。スタジオ公演でやっていた『待つ』は基本的にスタジオのメンバーの全員参加だったけれど、今回はとりあえず『尺尺』に出ていたメンバーに聞いてみようってことで、徐々に声をかけていったんだよね。

妹尾 『尺尺』大阪公演の打ち上げで酒を飲んでいたときだったかな。

岡田 そうそう。最初、個別に話していって、最終的に打ち上げで、プロデューサーの渡辺弘さんにさい芸でやらせてもらうという話にまでまとまった。

飯田 俺が印象的だったのは、大石さんのテンションが、いままでの大石さんらしからぬ、異常に高かったこと。ふだん言い出しっぺになるようなイメージではなかった人が、すごく強力に「やろうよ」って言うのは珍しいなあと思った。

岡田 それは酔っていたのもあったのかな。

堀 僕は『尺尺』には出ていなかったから、観に行ったときに大石さんと飲んだら、彼がいい感じにお酔いになられてテンションが高くなったところで、「『待つ』をやりたい、『待つ』をやりたい」(継太さんの声真似ふう)ってしきりに言っていましたね。

飯田 ただ、『待つ』をいまやるとして、14年分、歳をとっているから。そのことはたぶん、大きく関係すると思いますよ。作品選びとか演技とかのニュアンスが変わってくるかもしれない。


——最後にやった『2003・待つ』はどんなものでしたか。

妹尾 俺は出てない。京都にいたから。

新川 僕たちは、蜷川さんが撮った映画『嗤う伊右衛門』に出ていたから。

岡田 清家さんも出てないよね。「蜷川さんが演出しないから今回出ない」って言ったことを覚えている。


清家 ごめん、全然覚えてないわ(笑)。

岡田 あの頃、蜷川さんから電話があって「尊晶がやるっていうからやってくれ」って言われたからね。

井上 それ僕知らない、ヘー。ああ、そうなんだ……。

堀 装置のジャングルジムのなかではやりたくないって意見が多く出た公演でしたね。外でやればいいんじゃないのっていう(笑)。

飯田 ジャングルジムの素材が鉄パイプで、太くて中の演技が見えないじゃないかという不安があったんだよね。それで、明石(伸一)さんと直径20ミリくらいの細い棒を見つけてきて、それで芝居が見えるようになったんだよ

井上 元々は、金子(岳憲)くんが、スタジオの課題のエチュード発表で、ベニサン・スタジオの中に立てられるだけの高さの垂木のジャグルジムをつくって、ボルヒェルト作『戸口の外で』を演じた。それをみんなが面白いねって言ったことからはじまった」

妹尾 そういや、エチュードのとき、金子にジャングルジムをつくらされたな。


岡田 そのとき、ふだんあまり何も言わない(野辺)富三が、竹ひごで精密にジャングルジムの模型をつくってきたよね。こんなことをやる人なんだってそれはそれで感動したなあ。

堀 みんな煮詰まったときに野辺さんに意見を求めると冷静にちゃんとしたことを言ってくれるんだよね。

新川 富三、ここで、しゃべったほうがいいぞ(新川と野辺は仲がよく、おとなしい富三を新川がかわいがっていたという証言あり)。


——野辺さんは工作が得意なんですか。

野辺 ええまあ、好きです。

新川 “かえるくん”も、自分でつくったんだよね

野辺 はい、かえるの扮装をつくりました。

堀 『かえるくん、東京を救う』(村上春樹)ってその年?

野辺 『2001・待つ』です。

清家 『かえるくん』は僕がエチュードで発表した作品で、野辺ちゃんをかえるにしたいっていう思いが最初からありました。それも着ぐるみじゃなくて、質感のあるものにしたくて、どうやってみせるからなと思って任せたら、ほんとうにかえるに見えたんですね。頭もスキンヘッドにしてね。あれは面白かった。

新川 富三のカラダ中にかえるの塗装をするために、楽屋中が緑色になった。ドーランだけで5000円も使っちゃって。

野辺 皮膚呼吸ができなくなるから、2時間で稽古を終了しないといけなくて。

岡田 着ぐるみを作ったほうが良かったんじゃないかっていう(笑)。

飯田 ある日突然数ページの台詞の追加ってなかった? かえるくんの台詞だけ。

野辺 明日の朝やってできなかったら、この作品カットって蜷川さんに言われて、その夜、家に帰って寝ないで覚えました。

飯田 「おれがもし黒澤明だったら、一晩で覚えてくるだろう」って蜷川さんが言っていた(笑)。

清家 『かえるくん』の上演許可をとるために、ツテのない僕に代わって蜷川さんが連絡とってくれたんですよね。

飯田 『KITCHEN』をやったとき、蜷川さんは、この戯曲を全部やっても面白くないけど途中で嵐のように注文が増えて、調理場の喧騒が激しくなるシーンだけは絶対に面白いって言って。

妹尾 それでシーンを大幅にカットした。

堀 妹尾さん…妹尾じいがカットしたんですよね。あれがめちゃくちゃ面白かった。


妹尾 そう我ながらうまいカットだった(笑)。『KITCHEN』は人種問題の話だからその日本人には理解しづらい部分をカットして、注文とるところとつくるところだけに絞ったの。

飯田 たくさんの人種が出て来るなかで、中国人と日本人と朝鮮人だけ残して(笑)。

——『待つ』の思い出を教えてください。

飯田 小道具やセットを全部吊ったのが92年。

妹尾 大変だった、あれ。

飯田 仕込みのときに、テレビのモニターが妹尾さんのところに落ちて、死ぬかと思ったっていう。

妹尾 もう30センチずれていたらやばかったね。ベニサンの天井に簀子に板を敷いて、そこを渡って作業をするからけっこう大変だったなあ。

井上 そもそも吊ることにしたのは、『ツイン・ピークス』に出てくる女性ボーカルのデヴィッド・リンチが演出したコンサートのビデオか何かで、吊り物があって、それを蜷川さんが面白いと思ったのが元だったはず。

飯田 エチュードで僕らがつくったアイデアだけでなく、蜷川さんが商業ベースではやりきれないアイデアをもっていたので。スタジオはそれを実現させる場所だった。

妹尾 火を点けたポケットティッシュを舞台に撒いたことがあったね。

堀 継太さんと(鈴木)真理さんのエチュードね。
(その他、マヨネーズを一本吸う、サランラップをカラダに巻いて胎児が女性の体内から出てきて鉄扉の外に転がっていく、上からキャベツが落ちてくるなどユニークなアイデアの数々について次々語られる。『待つ』以外の公演についてもいろいろ語られました。それらはベニサンという元工場だった建物だからこそ可能になったというようなお話も。このへんの細かい記憶についてゆくゆく改めて検証していきます)。



——アングラだったんですね…。

妹尾 超アングラ(笑)。

岡田 そういうことにリアリティーを求めていたような……(笑)。

飯田 キャベツが落ちてくるのは、すごかったよね。女性が3人、順番に出てきて苦悩を語る話で、3人目が女装した岡田さんで、そこにドーン!とキャベツが落ちてくる。

——それは蜷川さんのアイデアなんですね。蜷川さんと一緒にアイデアを出し合って実現していく作業は楽しそうです。

一同 地獄だよ!(笑)


堀 1月半ばに公演、秋から稽古がはじまって。それぞれが考えたエチュードを発表して、合格できないとまた作り直す、その繰り返しで。

新川 しかも、合格したからって出られるとは限らないんですよ。合格した人を紙に書いて稽古場に貼ってあるんだけど、蜷川さんが、それを丸めて捨てたこともありました。

堀 飽きちゃうんでしょうね。

飯田 作品だけ残って、つくったひとが出られないこともある。

新川 僕が出したエチュードで合格したのはスローモーションだけ。井上陽水の『最後のニュース』を流しながらふんどし一丁でスローモーションするっていう(笑)。それでも、なぜかたいていどこかの作品に入れてもらえていた。こうして、出る人、出ない人がはっきり分かれてきて、出る人は早く来て稽古して、出ない人は、鉄扉開けるのを手伝ったり裏の仕事をしたり。あれはおもしろい縮図だよね。

妹尾 おれ、舞台監督やっていたもの(笑)。

堀 スタジオの名前もよく変えていたね。

清家 最初は「蜷川教室」からだからね。蜷川さんが若い俳優をはじめて演劇教室のようなことをやっていて、それが『タンゴ・冬の終わり』(84年)を経て、GEKISHA NINAGAWA STUDIO が立ち上がった。

飯田 「ヤング・ニナガワ・カンパニー」って名前でハンコをつくり直すのが恥ずかしくて(笑)。

堀 でも誰もツッコめない(笑)。


——いろいろあっても皆さん、よくぞくさらずに。

一同 くさったくさった(笑)。

井上 あの頃の演出家は屈折していますよ。いま、蜷川幸雄という演出家は社会的に認知されているけれど、たぶん、スタジオに古くからいるひとたちとは、そことはちょっと違う、ちょっとアウトローなところで生きていたんじゃないかな。

妹尾 そうだねえ。

井上 スタジオ公演には出るけど、蜷川さんの商業演劇には出ないっていう人がいたくらいで、変わったひとが多かった(笑)。

清家 面倒見もいい人で、スタジオの旗揚げ公演『稽古場という劇場で上演される三人姉妹』のとき、僕はピアノを弾かなきゃいけなくて、子供の頃弾いたきりだったので勘を取り戻すために毎日練習しないといけなくて。蜷川さんの家にピアノがあるからって泊まって練習させてもらいましたよ。

——今度の『待つ』も、今出たようなアングラな内容をやっていくのでしょうか。

岡田 いろいろやりたいことはそれぞれあるけれど、今回は9人が全員出るものをやりたいと思っています。それこそに意味があるのではないかなって。9人が揃うことはほんとに最後になるかもしれないから、がっつりやりたい。

——ほかに俳優のプラスアルファの可能性は?

岡田 作品に合うひとがいたらその都度声をかけていこうと思います。声をかけてない人たちに他意はなくて、今回の面子は、蜷川さんにとって最後の公演『尺尺』がこのメンバーだったからってことだけで……まずはこの9人を核にしてやってみたいと思っています。

PART2
大石継太、塚本幸男


——7人の座談会で、とにかく大石さんが『待つ』に対してすごくやる気だったと聞きました。

大石 お通夜のとき、塚本もいた?

塚本 帰ったかな。

大石 あのとき、鈴木裕美、松重豊、勝村政信、寺島しのぶなど昔の仲間が集まって話をしていて、寺島しのぶに「蜷川作品で何が一番思い出に残っている?」と聞かれて、『近松心中物語』の与兵衛をまさかやれると思っていなかったからやらせてもらえて感謝しているって答えたんです。でも、そのあとひとりになって改めて考えたとき、たしかにそれは自分にとって大きかったけれど、やっぱりベニサンでスタジオ公演をやったことが財産だったなあと思って。スタジオ時代からずっと蜷川さんの舞台で一緒にやってきた僕らは、蜷川さんがいなくなったらそれぞれ別の世界に旅立っていくことになる。その前にもう一度、あのときの仲間で『待つ』ができたらいいなと思って『尺尺』に出ていたひとたちに声をかけました。

塚本 僕と堀は『尺尺』には出てなくて、『元禄港歌』が最後でしたね。大石さんから『待つ』の話を聞いて、やっぱり、スタジオの人たちとこのままバラバラになるのはもったいない気がしたんですね。それぞれの得意なところを最大限に生かして、みんなで一本の作品をつくるってことをやってみたかった。『待つ』は短い作品をたくさん積み重ねてつくるものだったけれど、今回は今までやったことがない、一本の長いものに挑戦してみるのもいいんじゃないかって。

——すでに何をやるか決まっていますか。

大石 まだ決まってないです。それぞれやりたいものを持ち寄って話し合おうと思いますが、きっと揉めるでしょうね(笑)。

塚本 そりゃあ絶対揉めますよ(笑)。

大石 チラシのデザインでもみごとに真っ二つに意見が分かれましたからね(笑)。

塚本 スタジオ公演では蜷川さんがすべてジャッジしてくれていた。時にそれは容赦のないもので、例えば、30分間の作品が1分になってしまうこともありましたが。

大石 蜷川さん以外で、これは面白くないから短くするとかやめたほうがいいとか言える人はいませんから、どうなるんでしょうね。

ーー『2013・待つ』のときは、演出だった尊晶さんがカットしたんですか?

大石 あの時も僕らは長いものをみんなでやりたくて、『十二人の怒れる男』をジャングルジムの中でやったんです。でも、それも、最終的に蜷川さんがジャッジしたと思うんだよね。

——今回も尊晶さんが演出するんですか。

大石 それもまだ決めてないんです。尊晶もやりたいことがあるだろうし、僕らのやりたいこととすりあわせていければ。最終的にはいいものをつくりたいという思いがすべてですよね。

——絶対的な人が不在のなかでつくっていくことは興味深いですね。そもそも、『待つ』とはどういうシリーズなんですか?

大石 今の若い奴らは芝居が受け身だし、待っていれば役をもらえると思っている受動的な奴らばかりだってことから『待つ』になって。そうしたら、稽古で僕らがつくるものに自然と、「待つ」っていう言葉やシチュエーションが出てくるようになりましたね。

——今回もそれは踏襲しますか?

大石 ですかね? ぼんやりとですが。

塚本 とにかく長い一本のものをやりたい。長いもののほうが物語がうねるじゃないですか。

大石 結局、短いものを一本にまとめていくのは、蜷川さんがいたからできたことだから。例えば、『KITCHEN』を短くカットした場面のなかに、別の作品を入れたり、突然、バイク走らせたり、キャベツを上から落としたり、そういう冴えたアイデアは僕らには無理だから。でも、チラシに蜷川さんの顔を大きく載せた以上はそんなことも言っていられないし(笑)。

——『待つ』の思い出を教えてください。


大石 僕が最初にやった『待つ』は1991年。その時、僕はザズウシアターの『LINX』という3人芝居に、松重と勝村と一緒に出ていて、『待つ』に参加するオーディションだけ受けてそのまま他の稽古場に行きました。ザズウの公演が終わった翌日、スタジオの稽古場に行ったから首が繋がったけれど、そうでなかったら辞めさせられていたかもしれない(笑)。その時、蜷川さんに言われたのは、「塚本たち新しい人たちの勝ち。君ら古いひとたちは大負け」って。その時、堀と塚本がやった『五千回の生死』(宮本輝)がほんとに凄かったんです。その後も蜷川さんはことあるごとに、それをやらせていた。

塚本 でも、僕、スタジオに入って1年めの時、エチュードで全然合格をもらえなくて、7作出してひとつも受からないから「日めくりカレンダー」って呼ばれていましたよ(笑)。

大石 岡田ちゃんの『ゴミ』(宇野イサム)もよかったですね。女の子が、自分の気持ちをゴミと一緒に捨てに来ると、近所のおばさんが、今ゴミ捨てたでしょうって咎めるんだけど、「私は思いを捨てに来たのに、わかる?」って反論する話。蜷川さんの得意な演出方法で、同じシュチュエーションを違う俳優で3回繰り返すんですね。1、2回めは女の子の上からティッシュが降ってきて、3回めは、岡田さんがミニスカで出てきて、そうするとキャベツがドーン!ドーン!と落ちてくる(笑)。

塚本 上からものが降ってくる演出が『リチャード三世』に繋がるの。

大石 あとは火が降ってきたり。『KITCHEN』の合間に違う話を挿入したときに降らせたんだよね。ふいに鈴木真理が難しい台詞を語るときに火が降ってくる。やっぱり蜷川さんの全く違う話を接続させる力は凄いですよ。

塚本 蜷川さんに「上に上がれ」って言われてティッシュを燃やして落としました。今じゃ絶対できないことだけど、お客さんは、凄い演劇だなと強烈に印象に残ったと思いますよ。

大石 ベニサンだったからこそできたことがたくさんあった。今はああいう場がないことが寂しいですね。やっぱりベニサンが僕らのホームグラウンドなんだと思います。

塚本 いろいろ試したことが『夏の夜の夢』に繋がっていくんですよね。

大石 蜷川さんが一番元気だった時代かもかもしれないね。

塚本 僕は、大石さんの『カツ丼』が見事だったと思いますね。カツ丼を出前すると「いらないわよ!」って言われるんだけど、次の日に空の丼が戻って来て「食べてるくせに」っていう。屈折した気持ちのやりとりが見事なんですよ。

大石 それも宇野くんの作品ですね。

塚本 2年くらい前に、さいたまネクスト・シアターの人たちに『五千回の生死』と『カツ丼』を見せてやってくれって蜷川さんに言われてやったんですよ。

大石 宇野くんの作品をネクストにやらせる企画があって。結局なくなっちゃったけれど。ネクストが宇野くんのホンをやるとなんか蜷川さんのイメージと違ったんでしょうね。それで具体的に見せるために呼ばれたんです。

塚本 たぶん、僕らがやったままをやってほしいわけじゃなくて、僕らの演技を観たことで、新しいエネルギーを生み出してほしかったんじゃないかな。

——ベックマン(13年『ザ・ファクトリー4「ヴォルフガング・ボルヒェルトの作品からの九章 ー詩・評論・小説・戯曲よりー」 』)もネクストでやっていましたけど、スタジオ公演でもやっていますね。

塚本 金子がやったベックマンは見事でしたよ。戦争に行けと追い込まれていく若者を、金子はサラリーマンに見立てた。それをジャングルジムのセットでやったもので、僕らの『十二人の怒れる男』もジャングルジムでやることになったんですよ。

——おふたりはスタジオを離れた商業演劇の稽古場でもムードメーカー的なところがありました。

大石 僕は怒られ係でした。

塚本 継太さんは、怒られても蜷川さんに憎まれ口を返せる唯一の人だから。蜷川さんに「あの馬鹿」って言えるの、継太さんしかいないですよ。

大石 いや、それは、言えるか言えないかタイミングをはかっていましたよ。絶対に言えない時もあるから。

塚本 俺は絶対言えない(笑)。俺の場合、20人くらいに蜷川さんが何か言って「わかったか!」と言うとき、たいてい俺の目を見るから、力いっぱい「はい!」って俺が20人分の返事を代弁する。誰かひとりが「はい!」ってやると周囲に伝わるから、そういう役割だったのかもしれないですね。


——『待つ』の話とズレますが、塚本さん、『海辺のカフカ』(15年)で猫を演じましたよね。

塚本 あれ、オーディションがあったんですよ。その時、蜷川さんに「リアリズムだよ」って言われて、猫を飼って研究しました。おかげで海外の劇評でも評価していただけて……。

——『2017・待つ』への意気込みをお願いします。

塚本 たぶん、観に来るひとの中には、『待つ』を知らない人もいると思うんです。いずれにしても、蜷川さんの名前を汚さないようなものを作りたいとだけは思っています。

——大石さん、蜷川さんと最後に会ったのはいつですか。

大石 3月の末かなあ。最後にマッサージできてよかったです。僕と岡田ちゃんと塚本と3人で行ったんですけど、その時、リハビリもしていて、座った脚を膝から前に伸ばすのがなかなかできないときに「継太下手くそ」と思いながらやれば? と提案したら、スーッと手足が前に出たんですって。いつもそう言って蹴る真似していたから習慣はおそろしいねって、そんな話をしました。『ジュリアス・シーザー』のとき、僕が誕生日で、みんなが寄せ書きしてくれた中に、蜷川さんがサインと「下手くそ」と書いてくれたのが、今の僕の宝物ですね。

——『尺には尺を』をやったとき、僕らがやらなきゃという気持ちでした?

大石 う~~ん、僕らがっていうか、“僕は”という気持ちでしたね。たぶん、みんなそれぞれがそう思って取り組んでいたんじゃないでしょうか。


2016年の暮れからメンバーは集まってミーティングを重ね、公演チラシをつくって、さいたまスーパーアリーナ『1万人のゴールド・シアター2016』公演で手配りをしていました。これから本格的に稽古がはじまっていきますが、9人はどんな作品を選ぶのでしょうか。蜷川さんがいたときの鮮烈な出来事の数々も今後、おひとりおひとりに伺っていく予定です。




取材・文/木俣冬
デザイン/田淵英奈