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現場ルポ..............激流/蜷川幸雄 2006 - 2007

      インタビュー1
    2006年初頭
       
 
  エピソード1/ 茂手木桜子
    羊をかぶった少女
       
      インタビュー2
     2006年春から秋
       
      エピソード2/ 前川遙子
   大抜擢
       
      エピソード3/ 神保良介
   26歳のベテラン
       
      インタビュー3
   2006年晩秋から冬
       
      エピソード4/ 遠山陽一
  今が一番輝いている時
       
      エピソード5/ 宮田道代
  裂けたシューズ
       
      エピソード6/ 石田佳央
 まだまだこんなもんじゃねえ
       
      エピソード7/ 泉裕
  おーい、救けてくれ!
       
      インタビュー4
  2006→2007
       
      インタビュー5
  2007
       
      エピソード8/ 鈴木豊
  ホーム&アウェー!?
 
   

激流 蜷川幸雄2006−2007

2007年を目前に迎えた12月29日。その年最後の稽古の日、蜷川幸雄に聞いてみた。
「蜷川さんにとっての“2006”は?」
「総括か……いま走っているところだからなあ」
 しばらく間を置いて蜷川は答えた。
「“闘争的であれ”かな。来年はもっとカオスに突入するぞ!」
 以前から蜷川は「ぼくの活動は年間トータルで見てほしい」「作品って単独じゃなくて、網の目のようにいろんな人の想いで成り立っているじゃない?」などと言っていたが、蜷川の視野にはもはや年間という細かい区切りはないのかもしれない。あるのは、一作一作、一年一年…が支流となって流れ込んでいく“人生まるごと”、黄河かナイル川かというように大きく長い流れの演劇なのか。
「外国で演劇をやるのも、猛スピードで走っている途中に、外国を通りかかったから、“こんなのやっているんだけど、ちょっと見て!“っていう感覚なんだよなあ」
 以前、俳優・高橋洋が、蜷川の稽古は「濁流に放り込まれるみたいなもの」と例えていた。蜷川という大きな川は時に、嵐で勢いと水量が増した川のように、過去から現在の時間、出来事、文化、いろいろな国やそこで生きる人間など、たくさんのものを巻き込んで、凄まじいスピードで流れていく。

 

[蜷川幸雄 インタビュー1 2006年初頭]


 2007年1月。彩の国さいたま芸術劇場の稽古場の一階、地下二階を、蜷川は往復していた。一階では『コリオレイナス』(彩の国さいたま芸術劇場1月)、地下では『ひばり』(シアターコクーン2月)の稽古が行われていた。『コリオレイナス』は午前11時から15時くらいまで、『ひばり』の稽古は16時くらいから行われていた。
 70年代の劇団時代、江古田の貸し稽古場を3時間単位でしか使えなかったから、今、自分の稽古場があることがどんなに嬉しいかしれないと語る蜷川に「上でも下でも稽古ができて、いい環境ですね」と他意はなく言ったら
「恥ずかしいこと言わないで」と目を伏せ笑った。
「昔、木村光一さんがベニサンの稽古場を掛け持ちで稽古していたのを見て、“仕事やりすぎ”って皮肉を言っていたのに、今自分が……と思って、羞恥心がかきたてられるんです。『コリオレイナス』『ひばり』、『恋の骨折り損』(彩の国さいたま芸術劇場3月)の3本は、最悪の欲張りジジイ演出家にならないよう、より丁寧に、精魂込めてつくりあげなくてはいけないと思っているんです」
 蜷川幸雄の2007年は、2006年12月には既にはじまっていた。
 12月4日の『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』(さいたまゴールド・シアターPRO・CESS2)の千秋楽がおそらくNINAGAWA20006の終わり。12月10日にニナガワ・スタジオのエチュード発表会、12日から『コリオレイナス』稽古で、「はじめて一緒に仕事をする俳優もいるから、取材は稽古が落ち着いてからにして」と言われ続けて、29日になってしまった。年が明けてはならない、なんとなく、そう思っていた。30日〜1月3日までの短いお正月休みの前にギリギリ滑り込みで取材を受けてもらえた。しかし、既に2007に向かっている蜷川に2006のことを聞くことは無意味ではないだろうか…という気持ちもあった。
 その日は蜷川より早く稽古場に着いた。というか、稽古場が開く午前9時より5分くらい前に着いてしまい、当然ながら稽古場は鍵がかかっていて入れなかった。間もなく制作助手の稲村宗子が、寒そうにコートに顔をうずめながら足早にやってきた。大きく重たいドアが開くと、稽古場は見知らぬ静かな薄暗い空間だった。電気がつき、コーヒーメーカーの電源が入り、次第に温かくなっていくうちに、演出助手の井上尊晶、石丸さち子、演出部の今井眞弓、俳優の新川將人、塚本幸男などがやってきた。互いに挨拶を交わし、体調のこと、芝居のこと、いろいろな会話がはじまる。眠っていた稽古場が、また脈動をはじめる。
 この光景はどこかで見たことがある…と思ったら、『KITCHEN』(シアターコクーン05年)の冒頭だった。そういえば、こんなふうに舞台ははじまっていた。
 9時30分。蜷川が来た。黒いコートに黒いカバン、黒い靴…黒ずくめが蜷川スタイル。ここに時々、シャツや靴下などで赤やグリーンの差し色が入る。最近は、眼鏡の細い蔓が洒落た赤だ。
 皆と挨拶、会話を交わし、しばらく用事を済ませたあと、蜷川は待機している私を見て「どこでやる?」と聞いた。そのまま稽古場でやらせてもらうことにした。稽古開始は11時。その前に殺陣稽古があるが、さすがにまだ俳優は少ししか来ていない。殺陣稽古がはじまると、声が聞きづらくなるかな…と若干心配はあったが、舞台全体が見渡せる見学者用の壁際のパイプ椅子に腰を下ろした。
 まず一年間の簡単な公演記録のメモを見せた。しばし目を通した後「はい」とうなずいた。

「忙しかったねぇ…」。
 インタビューがはじまった。
「まず最初は喜劇の『間違いの喜劇』。この作品を幕開けに選ばれたわけは?」
「前にも言ったかもしれないけれど、志向として悲劇を演出したがる演出家と思われているけれど、過去に喜劇をやったことがないわけでないんです。アンダーグラウンド演劇にいったのは、既成の演劇――日本でいえば新劇――を壊そうと思ったから。その時に、武器としてもったのが喜劇的な手法だった。結果としてトラジコメディをやりました。『真情あふるる軽薄さ』(69年)などですね。しかし、時代の流れと共に僕らの集団が悲劇化していった。次第にグロテスクな表現に傾斜してついに解散となったんですね。当時、スラップスティックを学んだり、既成の価値を違う角度で撃つために、若山富三郎さんのやっている“極道者シリーズ”を研究したり、実際若山さんたちと交流をもったりもしました。その頃の思いは今でもあって、自分のやっていることを狭い世界に留めておかず、常に相対化したいと思っています。『間違い〜』を選んだのもその思いからですね」
「相対化」と聞いて思い出すことがあった。
 一年前の2005年11月23日。下町の紡績工場跡にあるベニサン・スタジオのビルの5階にあるニナガワ・スタジオの稽古場で蜷川は、スタジオの若者を集めてアジテーションをしていた。その暮に予定されていた3年ぶりのスタジオ公演は、発表するにふさわしい作品に出会えなかったという理由で中止になった。代わりに、若者たちが独自につくったエチュードを2日間に渡って蜷川が見ることになった。1日めはベニサン・ピットを借りて行われた。2日めは5階の稽古場に移った。
 すべての発表が終わったのは23日の17時。窓の外は既に暗かった。蛍光灯が煌々とついた稽古場の真ん中に学習チェアに座った蜷川がいる。スタジオの若者たちに向かって蜷川は声を挙げた。
「イージー過ぎるよ」「世界と現在をみつめていない」「自分自身をもっと追いつめろ」「身銭をきって勉強してない」など、それらは厳しい言葉ばかりだった。さらに怒りは公演中止のことにまで及んだ。
「まだ世に出てない若者との公演で、無名性を武器にできるベニサン・ピットみたいな小さなところで、今年いっぱい『天保十二年のシェイクスピア』をはじめとしたスターたちが関わってくれた公演を相対化しておれの一年をしめくくりたかったんだよ。だけど、おれは明けわたしたんだよ、井上に。井上がやるっていうから」
 この年のスタジオ公演の演出は井上尊晶がやることになっていた。蜷川は監修だ。公演中止は井上の決断だった。
「おれのこの一年の自分を相対化することができなくて、華麗なまんま、虚名な蜷川で終わっちゃったんだよ。ふっと華麗な蜷川を消したかったのに、消せなかったんだよ。おれの経歴から言うと、“2005NINAGAWA”っていう作品が、“2005NINAGA”で終わっちゃったんだよ」
 自分なら一週間でもやろうと思えば公演の体裁を整えることはできる。でも、若者たちの自主性に任せてみたかったと言った。
 半分本音、半分は若者たちの発奮を促す演出だったのだろうか。いや、それは、70歳の誕生日を記念した〈NINAGAWA VS COCOON〉プロジェクト(『天保〜』はそのラストを飾る大作だった)で2005年を華々しく終えることで安心しないよう、自身への警鐘だったのかもしれない。
 
 2005NINAGA…から2006へ。新たなNINAGAWA演劇の日々がはじまった。
「『間違いの喜劇』の中身は双子のとりちがいで深刻な話があるわけではないけど、ふた役をひとりでやるのがミソなのと、ドタバタ喜劇をコメディア・デラルテの手法をちゃんと使ってやってみた。それは成功したと思っている。でも演劇的な評価は高くなかったけど」
「そうですか?」
「あれをやるのが、どれだけ大変だったかはおそらくわかってなかったと思うよ」
 2役を演じた主役の小栗旬と高橋洋はまるでマラソンランナーのようだった。
 馬鹿馬鹿しさを作りあげるための真面目な取り組みに、今更ながら山口昌男の『道化』などを読んでみた私は、「笑いの本質」を見る思いになった。
「笑いの本来の意味を問いかけているのでしょうか? 昨今のバラエティーの笑いとはワケが違うよとか」
「そんな高級なことじゃなくて。そりゃあ僕らは山口さんの提示した道化を中心とした問題意識はアングラのころ読んでいたし。ま、その前に、バフチーンを通して世界の転倒のさせ方は学んでいた。でも、そんな批評的言語を使わなくても、そんなのひっくり返せばいいんだろ、身体的にこんなに大変だぜってことなんだから。それには日本的な笑いの表現は用いなかった。僕は日本的なものには興味がなくて、デラルテのほうに興味があったんだよね」
『間違い〜』は、彩の国さいたま芸術劇場での彩の国シェイクスピア・シリーズの中のオールメールによる喜劇のひとつ。この企画がはじまったのは04年『お気に召すまま』からだった。成宮寛貴が可憐な女性役を演じて話題になった。恋人役の小栗との倒錯的なビジュアルに、劇場は連日賑わった。
「僕は学者や観念で演劇をあつかう演劇人じゃないから、現場の演劇人としてのお客様に埼玉に来てもらおうという戦略もあるんだよね。公共の埼玉の劇場を活性化させたい、中央の演劇に対しての差別化させたいと思った時に考えたのがオールメールの喜劇。演劇のもっているいかがわしさを逆手にとりながらーーもちろんシェイクスピア劇が本来そうだったっていう知識はおりこみずみでーー男性のみで演じるシェイクスピアをやってみようと思ったんだ」
「中央の演劇というのは蜷川さんが芸術監督をつとめるシアターコクーン(渋谷)で、地方がさい芸(埼玉)。蜷川さんがふたつの劇場の芸術監督をつとめているのも、相対化のためですか?」
「それと同時にね、民間の企業と公共の劇場のレパートリーは違うだろうと。東京ではない、交通の便が悪い劇場はアイデンティティーを明瞭にしないとわざわざ来てもらえない。そのために学者的見地で語るものじゃない作品をつくって差別化しないといけないんです。劇場の存在意義を明瞭にするためにはどんなことだってやるぜと。演劇の楽しさは観念だけじゃなくてさ、どの俳優がなんの役をやるとか、いい男がどれだけいるかとかいかがわしい楽しみっていうのかな、劇評家が中心に据えないものも演劇の魅力。おれたちは演劇で生活しているわけだから。他の職業をもってその給料で暮らしながら演劇を語るのではなく、あの手この手を使いながら演劇で生活している。オールメールはあらゆる知恵を駆使しながら生き延びていくその一貫にあるんです」
「まさに芸能?」
「“芸能”って言葉も手垢がついてしまっているので、そこからもっと外れたいと思うんだよね」

「“芸能界”みたいな虚業な印象が強い現在とは違った、旅芸人みたいな演劇で暮らしていた人たちの意味ですか?」
「放浪芸に憧れていたりするわけではないんだよね。大衆演劇がすべて力をもっているかっていうと、そうでもなくて、中には浅薄なものもあるから。芸術、前衛っていうものに対してとりあえず芸能と言っているだけです」
“おれたちは演劇で生活しているわけだから”。演劇と生活――言葉だけとって並べるとどこかかけ離れた印象があった。演劇は天の世界、生活は地に足のついた世界というような。以前、スタジオに所属していた女性が「蜷川さんに生活者になるなって言われたんです。バイトばかりに明け暮れるなって」と言っていた。その時私は、演劇人は特別な人間でいろという教えなのかと思った。しかしそれは間違いで、俳優たるもの演劇で生活しろという意味だったのだ。特に演劇を学んでいる若い俳優たちがバイトが忙しいからといって演劇の最高の勉強の場――稽古の見学に来ないというのは本末転倒ということだ。
「バイトするなとは言わないよ。そこで関係性の在り方を解明するとか、世界のあり方を学んでいければいい。そういうことが演技に生きるものをやりたいんだよね」
 蜷川は言う。むしろ、「世界はすべて生活の中にある。そこから逃げるな、目を背けるな」と。
「生活の中にしか自分自身の発想はない。生活と向き合わないと。そうすれば優れた戯曲を読み込んだり、世界を再現できる。たとえ世界の断片しか手にはいらないとしてもね。自分たちの体験や認識が生きる演劇をやりたい。でないと、若い時だけで演劇人生が終わっちゃうでしょう。演劇が、運動やリズムに還元するというような作家のためだけに存在していたら、年齢をとったら芝居ができなくなっちゃうから…」
 その長年の思いが、06年春に結成された〈さいたまゴールド・シアター〉として実現を見た。そういう意味で、NINAGAWA2006は重要な年に位置するだろう。ゴールド・シアターは年内に二回公演を行い、目覚ましい成果をあげ、演劇界の枠を越え社会的に注目された。ゴールドの稽古場には常に取材のカメラが回っていた。
 
「あの、私、古本屋で『民衆芸術論』(ロマン・ロラン/大杉栄訳)を買ってみたんですよ」
「へえ。そんなのおれも知らないよ」
「なんでそんなの買ったかと言うと、『白夜の女騎士―ワルキューレ』(シアターコクーン5月)あたりからずっと、蜷川さんはもともと民衆の姿を丁寧に描かれてきたけれど、今年は特に民衆を精力的に描いていると思ったので、“民衆芸術”なんて考えがそもそもあるんだって興味をもって読み出したんです(正直言えば取材時読み始めたばかりで、しかも未だ読了していない)」
「最近たくさんの人と一緒に仕事をすることが少なくなっているなぁと思って」
蜷川幸雄の演劇には、いつもたくさんの人々が登場する。時に100人を越えることもざらだ。
3月、蜷川は、ふたつのオーディションを行った。ひとつは、毎年行っているニナガワ・スタジオの若者オーディション。200人の応募者の演技を一日かけて見た。もうひとつはゴールド・シアター。予想外の応募者(1116人)のため、予定を大幅に変更して、2週間毎日、応募者の演技を見続けた。蜷川は、スタジオのオーディションを結成時から、書類審査はしない、全員会って決めることにしていた。ゴールドでも同じだった。

こうして出会った人々と共に蜷川は演劇をつくっていく。今年は46人の高齢者たちの舞台にスタジオの若者をプラスして総勢76人、『タンゴ・冬の終わりに』(シアターコクーン11月)の総勢100人と大人数の公演が多かった。蜷川の演出机の上には、それぞれの写真と名前が書かれた表がずっと置かれていた。
「自分の演劇の原点が群集劇(『真情あふるる軽薄さ』)というもので、でも、これをやるには体力がいるんですよ。ひとりひとりに愛情をもってないと成り立たないから、ものすごいエネルギーがいるんだよね。演劇的な処理の仕方にしても人間的なつきあいもそうだし、相当体力がいる。これは、やれるときにやっておかないといけないと思って。フェリーニやヴィスコンティーとか、あの天才たちでさえ、晩年は密やかになって室内劇をやりだす。ぼくはそういうのではなくて華々しく散りたいんです」

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