LINK ENGLISH

インタビュー

2006前編

2006後編
俳優・高橋 洋の記録

1997年にニナガワ・スタジオ(当時はニナガワ・カンパニー)に入った高橋洋は、98年の『ロミオとジュリエット』(さいの国埼玉芸術劇場/ホリプロ)のバルサザー以降、蜷川演出作に出演し続けている。公演プログラムのプロフィールには常に「蜷川作品に欠かせない俳優」という一文が付与される。昨今では、蜷川幸雄ともっとも長く芝居をし続け、映像と舞台の境界がない現代に、舞台ひと筋に活動する高橋洋に、公演ごとにインタビューをしていこうと思う。


yo-takahashi1


[プロフィール]
Yo Takahashi
大阪府出身。1998年『ロミオとジュリエット』(バルサザー)で蜷川演出舞台に初出演以後、蜷川作品に連続して出演、重要な役を演じている。

主な出演作:
『1998・待つ』(ラスコーリニコフ)、『にごり江』(吉三)、『血の婚礼』(トランシーバー少年)、『パンドラの鐘』(オズ)、『かもめ』(トレープレフ)、『三人姉妹』(トゥーゼンバッハ)、『近代能楽集〜卒塔婆小町』(詩人)、『真情あふるる軽薄さ2001』(主役の青年)、『マクベス』(マルカム)、『桜の園』(トロフィーモフ)、『ハムレット』(ホレイシオ)、『タイタス・アンドロニカス』(カイロン)、『オイディプス王』(コロス)、『お気に召すまま』(ジェイクイズ)、『ロミオとジュリエット』(マキューシオ)、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(五郎)、『KITCHEN』(ポール)、『天保十二年のシェイクスピア』(佐吉)、『間違いの喜劇』(ドローミオ)、『白夜の女騎士〈ワルキューレ〉』(ライト弟/巨人/刑事)、『あわれ彼女は娼婦』(バーケッド)、『タンゴ・冬の終わりに』(重夫)。


喜劇への挑戦
 
高橋洋にとって、今年はターニングポイントになる年ではないだろうか。
1月『間違いの喜劇』(彩の国さいたま芸術劇場)、5月『白夜の女騎士〈ワルキューレ〉』(シアターコクーン)、7月『あわれ彼女は娼婦』(シアターコクーン)と、三本すべて、今までにない、笑いを担う役を演じていたから。
それまでの高橋は、どこか陰のある、周りからちょっと孤立した雰囲気のある青年の役が多かったので、一気に印象が変わった。
本人は、この変革をどう受け止めているのだろうか。

 

 

――『間違い』は、俳優・高橋洋にとって、ひとつ区切りじゃないかと思うんですが。
「ひと区切りというかひと転換だと思いますね。僕のなかでは結構大きいですね。『間違い』をやる時に、そう思いました」

――このサイトではまず、高橋洋の2006年の進化の過程を追ってみたいと思います。
「2006年、まだ終わってないですからね(※この取材は『タンゴ・冬の終わりに』(シアターコクーン)の稽古がはじまる前に行った)」

▲ページTOPへ

 

 

 

[これは勝負だなって思った]

 

――『タンゴ〜』の後で、最終的に振り返って頂きますけど、とりあえず前半を振り返ってみてください。前半の道化的な役柄と、『タンゴ』の役はちょっと違う雰囲気です。ただ、『タンゴ〜』の台本に、高橋さんの役・重夫が、チャップリンの映画の物まねをするところがあって。『間違い』の時に、しきりにチャップリンの物まねを採り入れていたでしょう。それだけに着目するのは些末なことですが、蜷川さんが、ご自身の作品を「一本ずつではなく年間トータルで捉えてほしい」とおっしゃったことがありまして、俳優もトータルで何か年間目標があったりするのでしょうか。
「僕には、そういう感覚はないんです。だって、半年先の予定くらいしかいつも聞かされていないから(笑)。でも、『間違い』の稽古がはじまる時に、『あわれ』の予定までは聞いていました。だから、『間違い』『ワルキューレ』『あわれ』と、今までにない役がみっつ並んだ時、これは勝負だなって思ったんです。喜劇的な役は、以前からいつかやりたいとは思っていたけど、まだ僕には無理だろうなと思っていて。でも、今年のみっつを見て、今、やるべきだなと思ったのと、ここでこけたら何年も後退するなっていう不安も感じました。だから、ちょっとものすごいがんばろうと思った。がんばって、みっつ連続クリアしようと決意したのですよ。ハハハ」

――大概、俳優さんは、いろんな役をやりたいとおっしゃいますが、高橋さんが喜劇的なものをやりたいと思っているとは、正直意外でした。
「シリアスな役ばかりやっていると、それぞれ、本人の中では、役柄も演技の質も違うつもりなのに、客観的には大まかにまとめて、同じって見られる。そういう印象を壊すためには、シリアスと反対側に大きくふらなくちゃと思っていました。でも、それにしても『間違い』はあまりにも大変でした。最初に台本を読んだ時、泣きそうになりました。道化って、日本人にはもっとも苦手な分野だと思います。人を笑わすことが得意な人はいるけれど、西洋型の典型的クラウンをストレートに演じるのは日本人には難しい。台本はまさにそういう役だったから、これは失敗するわって本当に思ったんですよ」

――いまだかつて、与えられた役に対して、そう思ったことはなかった?
「稽古中に思ったことは何度もあるけれど、最初に読んでうちのめされたのは、はじめて。これから、みっつの挑戦があるのに、いきなりひとつめでコケるの?って…(笑)」

――そんな難しい役にどうやって取り組んでいったんですか?
「いつもは、はじまる前にひとりでアイデアを考えることはあんまりなくて、やりながら作っていくことのほうが多いんです。でも『間違い』は、最初に役のイメージをはっきりさせておこうと、衣裳とかいろいろ考えました。イギリス人のようにスッと立ってしゃべってるだけで笑わすなんて僕にはできないから、カラダ使って見せるしかない。で、カラダ使える俳優をバーッと思い出して、ビデオを見返して。いろんな人の動きの断片をつぎはぎして、マネするしかないなって思ったんです。僕、物まねヘタなんだけど…歩き方やコケ方とか、そういうのをいろんな俳優の動きをマネしました。ベースはチャップリンです。 歩き方とか。個人的には、キートンも好きなんです。アクロバティックな部分はキートンのほうが優れていて、コケ方とかカラダの反転のさせかたとかはマネしたかな。関係ないけど、『男はつらいよ』の寅さん(渥美清)のコケ方は、キートンの影響があるなって思うんですよね」

――ずいぶんカラダが柔らかいんだってことを『間違い』で知りました。何か訓練みたいなことをやっていたんですか?
「特に何も」

――子供の頃、野球部だったと聞いていますが、その頃の身体能力をずっと維持してるんですか?
「もともと体は柔らかかったみたいです」

――バレエの動きなんかも、キレイに脚が上がってましたね。
「僕なんかはまだまだですよ。チャップリンは本当にすごいんですよ。でも、僕がバレエやるなんて似合わないから、そのギャップがおもしろいかなと思ったんです。やってみて思ったんですけど、こういうベタな動きって、お客さんに見せるためにやるんだけど、稽古中は見ているのは関係者だから、素直なリアクションがないんですね。関係者の反応とお客さんの反応は違うのはわかっているけど、違うリアクションの中でやるってことは大変なんですよ。稽古でも笑わせて、なおかつ同じポイントでお客さんにも笑わせることができる箇所は、ものすごく少ない。お客さんの笑いの半分以上は稽古では笑いが出なかった部分なんです。声が出る笑いって意味でね。やっぱり喜劇だから声に出る笑いって必要なんです。芝居を加速させるんですよ。稽古で笑いが出ない中で、やるのはものすごい大変だった。喜劇パートを毎回やったら、死ぬなって思いましたよ(笑)」

――テレビのバラエティーの撮影で、なぜかスタッフが常にやたらと笑っているのってそういう雰囲気作りなんですかね?
「そうなのかも。スタッフ的なリアクションじゃなくて、フツーにお客さんのリアクションが確認したいんですよ」

――動き回って肉体的な大変さの印象を感じていましたが、心理的にも大変だったんですね。
「そっちのほうがはるかに大変だった。おれには、人を笑わせるエンターテナーみたいなことはできないって思って、毎日稽古に行く足が重かったです」

――稽古では日々、進歩が見られて、そんなふうに思っていたなんて知りませんでした。その不安が払拭されたのはいつですか?
ゲネの前日、舞台稽古で手首をケガしちゃったんですよ。コップが持てないくらい痛かったんです。でも、その腕で、剣をもったり、手をついて回転したりしなくちゃいけなくて。翌日のゲネでは、回転とかやめようかと思ってたんです。でも、動きを変えると、相手役の動きや照明の段取りとか全部が変わってしまう。さんざん迷って、もうどうでもいいや!と開き直ってやったら、カラダの痛みのあまりの大きさに、逆に心の不安がちょっと楽になって、ふっきれたんですよ。ゲネでの僕の芝居はひどかったし、関係者ばかりの客席はシーンっとしている…。そこで開き直ったんです。今の自分の未熟さをさらしちゃったから、もう何もかも忘れてやるって思えたんです。そしたら、初日は楽しくできたんですよ」

――実際、お客さんはよく笑っていましたよね。あきらめなくてよかったですね。
「うん、あきらめなくてよかったなぁって」

▲ページTOPへ

 

 

[自分にないものは演じられない]

 

machigai1『間違いの喜劇』よりドローミオ
デコ靴が特徴

――これで、第一関門クリア、喜劇もやれると思いました?
「いやいや、一回くらいで思わないですよ」

――でも、笑いのセンスもあるんだと思った人は増えたんじゃないですか
「“本当はこういう人だったの?”って言う人はいました。“なんだ、隠していたんだ、こっち(笑い)が地なんじゃん?”とかって。この役はものすごく苦労して構築したものなのになぁ…って反論したい気もしたけど、演技が真実に近いものに思ってもらえるなら、それもいいのかもと思い直しました」

――毎回そう思わせたらいいですよね。暗いのも明るいのも地のように演じて、結果どういう人なのかわからないような。
「そうですね。ぼく、芝居をはじめて早い時期に、自分には強い個性がないから、いつでも役を演じなきゃダメだって思ったんですよ。どんな役でも自分に引きつけてやれるほど強い個性や外観もないし、芝居の質も強いものをもってないから、それこそその時々にやった役で、ああこういう人だったんだって思ってもらえないと、生き残れないなって。そういう意味では、ドローミオを演じたことで、高橋洋はこういう人だったのかって言われるのはよかったと思います」


――とすると、実は、これまでのちょっと陰のある個性も演じていたものだった?

「これまでは、比較的に自分の資質に近いものをもらっていたんだと思います。ちょっと内向的な感じを」

――稽古場やインタビューなどで、普通に愉快な面も出されますよね。まあ、一面しかない人はいないですしね。
「だから、演技のことを、地とか素とか分けて考える人が多いけど、それっておかしい気がするんですよ。どんなに、その俳優本人を知っていて、この役は素に近いと思っても、演技はしてるし。ずいぶん本人とかけ離れて、演技してるなと思っても、自分にないものは出せないわけだから」

――ドローミオを演じることで、高橋さんの中にある陽気な資質が顕在化したってことですね。
「大阪出身だから、コテコテの笑いとか、実は意外と抵抗なくできると思うんですよ。吉本新喜劇は見ていたし、嫌いじゃないんで」

――『間違い』では、コテコテなことはやってないですよね。アグレッシブに笑わせようという意識より、台本に書かれていることに忠実に喜劇的に再現しようとしている感じでした。そこが高橋さんのマジメな資質なのかなと思いましたけど。
「100%コントにはしたくないとは思っていました。コントっていうと語弊があるかもしれないけど。たとえば、エイドリアーナ役の内田滋君は、裸になったり、ハンカチ飛ばしたり、台本にない部分を加えていましたよね。アンジェロ役のたかお鷹さんやアンティフォラス役の小栗旬君の笑いのスタイルも違っていたし。皆、ちょっとずつ色が違う。だからこそ、お客さんにはおもしろかったのだと思います」

――アンティフォラスとの会話のシーンで、横山やすしの物まねをやっていましたよね。あれには大阪色がありました
「あれは、『お気に召すまま』(04年さいの国埼玉芸術劇場)の舞台袖で、小栗に見せていたものなんですよ」

――2人だけにわかる、仲良しの印ってことですか?
「いや、そういうわけではないです(笑)。横山やすしの物まねは、関西人はよくやることだから。あいつがある日突然、僕にふってきて、ふだんの僕だったらやらないけど、小栗の憎めないキャラクターに免じてやってあげたんです(笑)。小栗が自分の出番が終わって、舞台袖にはけると、入れ違いに僕の出番なんです。出ていかなきゃならないのに、“横山やすしをやらないといかせない”って抑えるから、“怒るで、しかし”って言って出ていったんですよ。その後、マジメなシーンなのに…。そのことをずっと覚えていたわけじゃなくて、『間違い』の稽古中、僕が無意識に横山やすしをやっていて…それを小栗が見ていて、“あれ以来だね”って、話になって…」

――小栗君のためにやってあげたわけじゃないんですね。
「あれは自分に景気づけているんですよ、あの場の演技に。シーン1って、イジーオン(吉田鋼太郎)が死刑になる、ならないという深刻な話をする場面で、すごく重いので、喜劇のはずなのに?と、観客は戸惑うんです。だから、シーン2に道化の僕が出てきて、いきなりズボンを落としたりしても、食いつきが悪い。だから、前半は、意識的にお客さんが引いてもひたすら押しているんです。横山やすしは、そういう意気込みを込めているんですよ」

――そこまで!
「笑いに俳優が左右されちゃいけないのはわかっているから、常に、マイナスマイナスで考えているんですよ。プラスに来たらよかったと思う、ソレくらい気を引き締めてないと喜劇を演じるのは厳しいですね。しかも、芝居の途中で笑ってもらった分量と、最後の拍手は比例しないんですよ。だからこそ、途中で左右されちゃいけないなって思うんです」

▲ページTOPへ

 

 

 

[逸脱していく必然性]

 

――次に、『白夜の女騎士』ですが、『間違い』で鍛えられた後だから、軽い会話など演じやすかったのではないですか?
「いや、逆に、『ワルキューレ』は難しかったんですよ。なんていうのかな、戯曲に書かれているところから飛び出せないっていうか、書かれている以上のものをなかなか付け足せなくて苦しかった。言葉が俳優の肉体を通した時に出る生き生きとした+αが出せなかった気がするんです。言葉の力なのかな? 劇構造なのかな?」


――言葉の力が強すぎて?
「言葉のイメージが強すぎて、俳優が自分なりの何かを足そうとすると、文体から逸脱するしかなくなってしまうというのかな。僕は、そうして楽しむことよりも、もっともっと言葉の中心を掘り下げていきたいと思って、悩みました。『間違い』の台詞では、そうしていたんですよね」


――確かに、『白夜』では、勝村政信さんや六平直政さんが中心となって、戯曲に書かれた部分に、アドリブ的なものを加えていく作業が盛り上がっていった気がします。

「もちろん、本質にすぐ戻ってこれる範囲の中でやってることだから、面白いし、あれはOKなんです」


――いきなり飛んで『あわれ彼女は娼婦』の話にいきますけど、『あわれ』の時は、逸脱に向かっていた気がしたんですよね。『白夜』で、周囲が、いろいろ足していた影響なのかなと感じたんです。舞台袖にはけてから、転んだ声を出したりしているところなど、ト書きにはないですし。アドリブ的とは言えないけど、バレエの衣裳を着て踊ったりするのも、ずいぶんと大胆に、役を際立たせているなぁと驚きました。
「『あわれ』のバーケッドは、パッと見は、ドローミオのような馬鹿(道化)って思われるかもしれないけど、演じる方の取り組み方は全然違うんです。道化はおどけて笑わせる者だけど、バーケッドはふざけてないんです。『間違い』をやったからこそ、その違いはよくわかったんです。バーケッドは “イノセンス”っていうところに焦点をあてて掘り下げていこうと思いました。笑わせようとかは一切考えていない人物として作りました。例えば、日常、普通に電車に乗っている僕らと、社会性という枠組を越えて自由奔放に電車の中で走り回ってしまう人たちは、感覚が違うじゃないですか。だから、バーケッドを演じようと思ったら、自然に逸脱していくんですよ。彼は芝居小屋で見るバレエが好きで、そのマネを、いつでもどこでもしてしまう。常識ではそこでそんなことしちゃダメでしょっていうときに踊っちゃうんです。演技の遊びとして、逸れたわけじゃなくて、伝統とか論理とかを重んじる人々への対比としての逸脱なんです。だって、バーケッドは、いわゆる“馬鹿”なくらいイノセントな人物だから、逸れて当然なんです」

aware yoko『あわれ彼女は娼婦』よりバーゲッド
左は召使いのポジオ役の戸井田稔

――慣習に縛られた人々の中で唯一自由であるという部分はとても感じられました。それにしても、道化的な外観(金髪のオカッパや、バレエ衣裳)で、勘違いされる危険性は感じなかった?
「道化のように見えるようにってことは演出家の要求です。自分では明確に、そう思っていなかったから、コケる動きなんかは稽古の最初はやってなかった。なぜなら、マンガのようにコケることは、リアルじゃないから。日常、あからさまにコケる人っていないじゃないですか。でも、稽古をやってる中で、飛躍が必要なんだってわかって、もっとカラダを使おうと思いました」


――バーケッドが道化パートだってことは、スタンダードなんですか?
「演出家も、読んでる時は、そう思ってなかったらしいです。僕もそうは思わなかったんですけど。蜷川さんはやっている時に気づいたらしいですよ。だから、コケるっていうのは僕のアイデアではなく、演出家のアイデアなんです。衣裳も髪型も含めて、あそこまで飛ばさないといけない役割という解釈なんです。実際やってみて、正しかった気はします。だって、あの役って本筋とはほとんど関係ないから。あんなに重たい話の中で彼だけみごとに独立しているわけだから、全体の色を変える必要があったんだと思います」


――他の俳優さんの醸す空気に馴染まず、いい意味で外観も行動も浮いてたから、自由の象徴的な印象が強くなったのかもしれないですね。
「僕らは論理をなかなかぶっ飛ばせないから。理由がないと飛躍もできない。でも、演出家は時々すごく飛べるでしょう。それって大事なことなんじゃないかって思います」

aware『あわれ彼女は娼婦』よりバーゲッド
ゲネより。本番では衣裳が変更になっている。

 

 


――くだらない質問で恐縮ですが、金髪オカッパは地毛でやってみようとは思わなかった?
「さすがにあれはちょっと…。オカッパは、僕のアイデアなんだけど、金髪は、ヘアメイクの佐藤裕子さんのアイデアなんです。最初はやりすぎだろう?と思ったんですけど…」


――お似合いでしたよ。
「地毛だと思われていましたよ。生え際とか黒くして自然に見えるように凝っていたし」


――高橋さんは髪型をふだんあまり変えないですよね。
「自分からは切らないですね。どんな役が来るかわからないから」


――俳優としての心構えですね。『タイタス・アンドロニカス』(04年彩の国さいたま芸術劇場)のワイルドなパーマもお似合いでしたし、いろいろな役をやることで、意外な発見があるのかもしれないですね。
「外側から内側が引き出されることもあるから。人間って意外と単純で、その気分になると、それまで開かなかった扉が急にポン!と開くことがありますね」

▲ページTOPへ

 


 

◆◆次回は、『タンゴ・冬の終わりに』を演じてみてのお話を伺います。

 

[資料]
作品と役の紹介
『間違いの喜劇』 シェイクスピアの初期の喜劇。子供の頃に別れ別れになった双子の兄弟アンティフォラス(兄、弟)と、同じく別れ別れになった双子の従者ドローミオ(兄、弟)が、運命的な再会を果たすまでの物語。そっくりの兄弟を、誰もが間違えて、大混乱となる。ドローミオは道化の役割で、知的な笑いを含んだ台詞をしゃべり、物語の中の庶民の代表でもある。双子の両方を演じる場合、シェイクスピアには珍しく、全編ほぼ出ずっぱりとなり、双子の入れ替わり作業など、物理的にも負荷のかかる難役。
『白夜の女騎士〈ワルキューレ〉』 野田秀樹の80年代の戯曲で劇団夢の遊眠社公演「彗星三部作」の第一作。60―70年代にかけての安保闘争の物語と、北欧神話や、オペラ『ニーベルンゲン』を混ぜ合わせた奇想天外なパッケージの中に、闘争に敗れた少年がそれでも空高く飛ぼうとする純粋な熱情が潜んでいる。シーンごとに、神話の巨人、人類初の飛行機で空を飛んだライト兄弟、現代の刑事に入れ替わっていく。どちらも国家権威の象徴。

『あわれ彼女は娼婦』 シェイクスピアと同時代の劇作家ジョン・フォードの悲劇。実の兄妹ジョバンニとアナベラが愛し合い、周囲に引き裂かれていく物語。国家、宗教など権威に対する反逆の刃が隠された作品。バーケッドは、アナベラと政略結婚をさせられそうになる青年。知的障害があり言動が周囲とずれている。家と家との争いに巻きこまれ、殺されてしまう。

 




Copyright (C) 2007-2017 the people of the Ninagawa Studio. All Rights Reserved.