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インタビュー

明石 伸一
影法師のような賢者

 2007年12月11日。大阪シアターBLAVA!での『カリギュラ』千秋楽。公演が終わり、楽屋でのシャンパンでの乾杯、挨拶が済み、俳優達は帰京の新幹線に乗るため次々と楽屋を出ていく。
 蜷川幸雄が楽屋廊下をキョロキョロと見回し「明石は?」とスタッフに聞いた。
『カリギュラ』に奴隷や詩人役で出演していた明石伸一は、その頃、舞台の上で、カリギュラが最後に割った鏡を片づけていた。
 蜷川は明石に礼を言い、握手をした。
 初日や楽日に、スタッフや俳優をねぎらい、握手することはいつも行っていることだが、わざわざ明石を探しに向かったことがとても印象的だった。
 そう言えば、ある人が言っていた。
「ニナガワ・スタジオの歴史は、蜷川さんはもちろんだけど、明石の歴史だよ」と。
 このサイトの写真担当の藤田俊太郎も言った。
「明石さんは、蜷川さんにとっての『ハムレット』のホレイシオみたいな人だって何人かの人が言っていましたよ」

 明石伸一はもともと舞台監督や演出部スタッフとして蜷川演劇に参加している。舞台監督は装置の動き、俳優の動きなど、演出家が描く芝居を完璧に行うため、公演中のあらゆる作業に責任をもつ仕事。演出部は小道具の用意をしたり、大道具の転換をしたりする。公演が機能的に進行するために裏でキビキビと働き回っている人々だ。
 明石は、07年夏公演『エレンディラ』で翼の男(主人公ウリセスが年老いた姿)として出演、『カリギュラ』でも引き続き出演となった。
 まばらに生えた白髪、枝のように細い手足、小さな顔に目だけがギョロリと浮き上がっている。外国人のようにも見えるし、年齢もよくわからない。大きな表情の変化は見せないが、ただずいぶんと長い時間を生きて、いろいろなものを見てきたように思えるその横顔に、「あの人は何者?」と興味を覚える観客も少なくなかった。

 





[プロフィール]
明石伸一 Shinichi AKASHI

  • 1983年『黒いチューリップ』で蜷川幸雄に出会い、GEKISHA NINAGAWA STUDIO(現ニナガワ・スタジオ)の創立に参加。『王女メディア』『身毒丸』『オイディプス王』『テンペスト』『夏の夜の夢』『近代能楽集』『タイタス・アンドロニカス』『ひばり』『恋の骨折り損』、さいたまゴールドシアター『PRO・CESS〜途上〜』『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』『船上のピクニック』など多数の蜷川演出作品に関わる。ニナガワ・スタジオ公演に俳優として出演もしており、07年は『エレンディラ』『カリギュラ』に出演した。




[俳優として、スタッフとして]

「なぜ、俳優として連続出演しているんですか?」と聞いてみた。
「出て、と蜷川さんに言われて、それはもう決定事項のようだったから」とサラリと答えた。
 出演にあたり、生まれてはじめてコンタクトを購入したそうだ。
 
『カリギュラ』では、ケレアの家で貴族をたくさん招いて食事会が行われる場面で、何人かの奴隷が支度に現れる。
「ほかの奴隷がおどおどしているのに、明石さんは堂々と作業をしているのが興味深いんですよ」

「だって、その前にカリギュラが、奴隷を解放して労働を貴族にもさせるって言っているでしょう。だから、もうおどおどする必要はないと思って。それに、おどおどしてたら、迅速に作業できないから。カリギュラの性格からしておどおどしている人間こそ狙ってくると思うし、エリコンが奴隷から引き上げてもらっているし、カリギュラは奴隷にとっておそれる存在じゃないんじゃないかな」

 戯曲を読み込んでいる! 25年、演出部、舞台監督などをつとめてきた経験だろうか。

「こじつけだけど……。自分がやりたいようにやるためのこじつけだけどね」

 自意識を極力消して黙々と迅速に作業する行為は、どんな俳優よりも、裏方を行ってきた明石こそリアルに演じられるのかもしれない。

「蜷川さんの舞台は、スタッフが登場することが多いですね。“これは、作りものなんですよ”っていうことをお客様に伝えるために。最近だと『タイタス・アンドロニカス』(04年、06年ホリプロ)は、開演前に準備しているところからはじまる。『白夜の女騎士』(06年Bunkamuraシアターコクーン)でも、蜷川さんは転換を行うスタッフにも黒いヘルメットをかぶらせ革命家のように見せていた。『ひばり』(07年Bunkamuraシアターコクーン)も最初にスタッフが客席から舞台に上がっていく。そもそもニナガワ・スタジオの旗揚げ公演『稽古場という名の劇場で上演される三人姉妹』は、ダメ出しまでも作品としてやっていたしね」

 そんなニナガワ・スタジオ公演で明石は何度となく出演していたと聞いた。

「それもスタッフとして。『待つ』公演の時、僕が突然出てきて“セットが不備だ”という報告を蜷川さんにして、200円をお客様に返すっていうことをしたりとか。最初はやっぱり緊張しましたよ」

 スタッフとしてでない出演は『待つ』の中の『KITCHEN』。浮浪者の役をやった。

「スタジオ公演って俳優がつくってきたエチュードを元にして構成していくんです。『KITCHEN』のエチュードをつくっている時、僕が手伝っていて、そのまま俳優の手が足りないからって出ることになってしまったんですよ」

 05年『KITCHEN』がBunkamuraシアターコクーンで上演された時、浮浪者役をやった塚本幸男は、「明石さんのやった浮浪者はインパクトがあった」と回想している。
 『エレンディラ』の翼の生えた男役もインパクトがあった。演劇評論家の扇田昭彦までが「あの人は何者なの?」と興味をもっていた。「初日のカーテンコールで彼だけずいぶん端にいたけど、重要な役なんだから、もっと中心よりに立たせてもいいくらいじゃないかな」と言っていたほどだ。

「健康診断で肉体年齢が80歳って言われた」と笑う明石。力尽きた老人らしさがよく出ていた。舞台上でせりふをしゃべることは『エレンディラ』も『カリギュラ』もなかったが、ふだん明石の話す声はとても小さく、ポツポツと話す。
 しかし、単に弱い人間ではあの役はつとまらなかった。
 車で男が引きずられていく場面がある。
 意識があればどうしたって抵抗してしまうものだが、為す術もなく引きずられていく演技は、なかなか難しい。

「うまく引きずられるように、車と脚をつなぐワイヤーの距離を、稽古後に実験して調整しました。長すぎても短すぎてもダメなんで。引きずられると、床に擦れて火傷をしてしまうので、自分で肌をカバーするガウンをつくったりもしました」

 本番中、両足についたワイヤーの片方が外れてしまったことがあった。

「一本だと、うまく引きずられないので、咄嗟に、一本のワイヤーを片足に巻き付けました」

 そんな日々のせいか、現在もぎっくり腰になっていて、脚の毛細血管に血が通ってないのだとか。臑や背中にテーピングが欠かせない。

「白髪もある時、急に出はじめて。最近、また黒い毛が生えてきましたよ。医者によると不摂生がいけないらしいけど(笑)」

 出演者でもありスタッフでもある明石は、『カリギュラ』公演中、フル稼動していた。マチネ、ソワレの間は、舞台の掃除をしていたそうだし、11月30日に東京の千秋楽が終わり、舞台のばらしを夜中の3時までやり、朝5時台の新幹線で大阪入り。仕込み作業をしていた。

 大阪楽屋の入り口にある着到板で、ひとりだけ明石のプレートが、入の白になっているのが印象的だった。

 『カリギュラ』2部の最初、タキシードを着て踊る場面も、ダンスの稽古を、ひとり、稽古の後、スタッフ作業が終わってからやっていた。

「本職のダンサーじゃないからヘタでいいという設定だけど、できなすぎてもよくない。ちゃんとやった上で崩したいと思って。スタッフと俳優とどちらもやっていると体力的にキツイし、精神的にもキツかった。どっちも疎かにしてはいけないから」

 

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[蜷川の発想に魅せられて]

 明石伸一は1983年『黒いチューリップ』(PARCO西武劇場)で舞台監督助手として参加したことをきっかけに、GEKISHA NINAGAWA STUDIO(現ニナガワ・スタジオ)の創立に参加、以降、数々の蜷川作品に携わってきた。


「秋田から、大学入学をきっかけに東京に出てきて。大学では文明学なんかを勉強してました。もともと映画が好きで、自分でも8ミリ撮ったりしていたんです」

 読書好きで、映画や演劇に親しみ、ジャズ喫茶でバイトするような文化的青春を送った。

「蜷川さんの舞台は『下谷万年町物語』(81年PARCO西武劇場)をはじめて見て興味をもちました。その頃、裏方のバイトをするようになっていて、演劇の裏方もやるようになりました。『黒いチューリップ』は舞台監督に誘われて参加しました。最初の仕事は、100人近く登場するエキストラがサボらないようにチェックすること。水の中から出てくる演出で、それがいやだから、ひとりくらいサボってもわからないだろうってサボる人がいるんですよ(笑)。
あとは、唐十郎さんが書いた台本にある実在の第三コンドルタクシーを使えるように交渉にも行きましたよ。一番大変だったのは、転換かな」

 無理そうなことを可能にしていく果敢な探求が蜷川演劇だが、ここで明石は、転換を45分から15分に縮めるという課題に向き合った。

「パチンコ屋からタクシーが池の中に落ちているという場面に変わるのに、
ちょうど100人近く出ているエキストラにも手伝ってもらって人海戦術を行いました」

 蜷川幸雄のやることは「おもしろい」。魅入られた明石は、その後の『タンゴ・冬の終わりに』(84年PARCO西武劇場)にも参加し、そこで結成されたGEKISHA・NINAGAWA・SUTADIOの旗揚げメンバーとなり「おもしろい」演劇を作り続けていくことになる。ちなみに『黒いチューリップ』には、照明の原田保、音響の井上正弘が、それぞれ助手として参加していた。

「スタジオ公演はどれも実験的でおもしろかったけど、特に印象に残っているのは『遠藤ミチロウx蜷川幸雄オデッセイ1986破産』(5/16〜20ベニサンピット)かな。遠藤ミチロウさんの歌と芝居が対抗するというコンセプトの公演。鉄扉を開けたまま、750ccバイクをたくさん走らせて、演奏もして、相当騒音だったと思う。遠藤さんの音楽スタッフと混合で仕事して、本番後は毎晩呑んでいたほど高揚感があった。蜷川さんは、本番一週間前に銭湯の絵がほしいとかゴジラがほしいとか言って、慌てて調達しました」。

 蜷川演劇でお馴染みの水槽も明石が中心になって作った。

「最初は『零れる果実』(96年)。その後スタジオ公演でも水槽が登場することになって。妹尾正文、飯田邦博、福田潔なんかは、当時、役者だけで食えなくて大道具のバイトをやっていたから、みんなで水槽を作りましたよ。お金がないから薄い素材を使って。俳優のカラダにあわせて大きさを変えて」

 外国公演で、慣れない外国人スタッフに、繊細な蜷川演出を徹底させてきたのも明石。たとえば、『近代能楽集〜卒塔婆小町』(90〜91年/00年/05年)の冒頭、椿がボタボタ落ちてくるが、この落ちる音とせりふの関係性を蜷川は考え抜いている。

「稽古の最初に蜷川さんがこういうふうに落ちるって説明したのをよく聞いて、それを再現した。海外スタッフはそれを何回説明してもわからないから、結局僕が舞台の上にのぼって、落とすスタッフにきっかけを与えていた」

『リア王』(90年/99年)では、岩を大量に降らした。これも、俳優に当たらないように神経を使った。

「落とすと言えば、『95kgと97kgのあいだ』(85年スタジオ公演)では、客席にダンボールを降らして観客に怒られて、途中で辞めたこともあります(笑)」

 蜷川幸雄の発想は、明石の心を刺激し続けた。実現化するために、頭も体も時間も使った。お金にならなくても構わなかった。そんな明石に、蜷川は時々、自分が着ない服をプレゼントしていた。

「特に思い入れが強いのは、『身毒丸』(95年初演 ホリプロ)かな。それまでは、直前の変更や追加オーダーがあっても、あらかじめ綿密に考えられていた。それが最近は、即興演劇って言って、稽古場でつくっていくようになった。その最初が『身毒丸』だったんですよ。稽古場の緊張感が凄かった。でも、なんでも自分たちでつくっちゃえっていう気概にあふれた稽古場だった。結果、すごくいい芝居になったと思います」


「どれだけ大変でも、蜷川さんの芝居がおもしろいから続けている。やっぱり蜷川さんの新作は見逃せないですよ」

 俳優としての出演は今後は?

「当分ないです(笑)」

 少し残念な気もするが、気落ちするほどのことでもない。なぜなら、蜷川の舞台には、明石伸一は黒い服を着て必ずどこかに存在しているから。

 

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